み言葉を語るときに。
どこにいっても、イエス様のそばには人々が集まってくる。
多くの人が集まったため、・・このイメージを心に焼き付けたい。すなわち、そこに人々が吸い寄せられるようにどこからともなく集められる景色を心に描くことが大切だ。
私も、みことばを語るときには、イエス様が共にいて下さり、イエス様の話を聞くために多くの群衆がおとずれるほどの賑わいを想像する。この町には私の民が大勢いる、多くの生活に精一杯の人々が生業を置いてまでイエス様の話を聞きに訪ねてくる。
これが、本当の教会の姿だ。少数でもいいと言い訳をしてはいけない。
神が求めている教会の原点であることを確認したい。
イエス様がおられるところはどこででも人で一杯になった。今、イエス様が生きていると信じ、聖霊が臨んでいるのならば、どうして同じことが起こらないのか。
神のことばが語られていないか、そこにイエス様の権威が伴っていないか、
何かが違っていると反省し吟味しなければならないのではないか。
みことばを語るとき、そこに神様の霊が働き、神の国が現れるはずだ。
それがイエス様の宣教であった。
みことばを語るとき、聞く人の魂が揺り動かされなければそれは本物ではない。
みことばを語る者であるならば、同じこと、すなわち神の業が起こること、
神の業とは聞く者の魂が救われることである。
人々はイエス様の口から出る一つ一つの言葉の中に、神の本性を感じとることができた。憐みと情けと、赦しと寛容、そして恵と豊かさ。。神ご自身も持つ本性をイエス様は語ることを通して言い表し、人々はそれを感じとることができた。
【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(詩篇103:8〜14)
そのような、神の本性を言い表すことのできていない説教者が、ただ多くの人が集められることを期待することはお門違いである。
語る言葉に実があってこそ、人々はその実を食したいがために集まってくるのだ。
私は、語るときにこのような光景をイエス様のガリラヤ伝道に重ね合わせてみていくようにしたい。
イエス様がみ言葉を語られるところは人で満ち溢れるのだ。
ペテロの手紙Ⅰ 4:11 JCB
説教するために選ばれた人は、神があなたを通してじかにお語りになるように語りなさい。人に奉仕するために選ばれた人は、神が下さる力に満たされて人々を助けなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神がほめたたえられるためです。どうか、栄光と力がいつまでもキリストにありますように。アーメン。