今日世界中の教会でクリスマスを記念して礼拝が持たれています。
なぜこれほどまで毎年世界中の教会でクリスマスが祝われるでしょうか。
一つは、信徒のため。自分が一体どこから、そして、誰から救われたのかをしっかりと覚えて置くためです。
一つは未信者のため。今もなお救いの門はすべての人に開かれており、神はイエスキリストを通してあなたを救おうと待っておられるという喜びの知らせを全世界に伝えるためです。
1.イエス様は失われた人を探し求めて救うために来た。
イエス様はザアカイに『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです』呼びかけました。
失われた人とは神との関係を失っている人です。
神との関係を失った人は、
①神様からのいのちを失っています。
神様は人に命を与える源の方ですが、命とのつながりが途絶えているために、人は次第に魂の内側に無意識の中で、人によっては自覚的にいのちの枯渇を感じるようになります。
しかし、人はひとのいのちがどこから来るかを見失っているために、被造物からいのちを求めたり、宗教の中に求めたり、もっとも最悪なのは悪魔に求めたりし、結局いのちを得ることが出来ず滅びに向かっています。
②神に愛されていることを知ることが出来ず、自分をも見失っています。
神との関係が失われているため、人は神に愛されていることを知らずに、この世の中をさまよい歩いています。
その結果、自我を愛し、世に執着し、この世の富を愛し自己満足を得ようとひたすら努力します。ザアカイはそのような人間でした。しかし、神はザアカイを見出し、彼を救うために彼の家に泊まって下さいました。
人は神を見失っていますが、神は見失った人を捜してくださる神です。神はイエスキリストの姿をとって失われてさ迷っている人々を探し求め救うために来て下さったのです。
2.キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。
パウロは『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Ⅰテモ1:15と告白しました。
彼はユダヤ教の指導者であり、神を敬い律法に精通した人物でした。しかし、それでも彼はまだ失われた人でしかありませんでした。
神を知っていることとイエスキリストを信じて救われていることは違います。
パウロは自分が迫害していたイエスこそメシアであることを聖霊によって教えられ、心から悔改めてイエス様をメシアと受け入れて救われました。
人はイエスキリストを救い主メシアと信じて受け入れることにより
はじめて神との失われた関係を回復することができます。
3.これが、あなたがたのためのしるしです。
御子の誕生の夜に野宿をしていた羊飼いたちに一つのしるしが与えられました。
それは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごでした。
➀社会的差別の中に来て下さるしるし
当時の羊飼いたちの身分は低く、神の救いから除外されていると考えられていました。
しかし、神は救い主の誕生を、神の救いから除外されていると考えられていた羊飼いたちに一番に現わして下さいました。
これは、今も、最もどん底に暮らしている人々、社会の底辺にいるさげすまれている人々を迫害と困窮と差別と暴力に苦しんでいる人々を神は忘れることなく覚え、
今も救いの手を差し伸べていることのしるしです。
②人の弱さの中に来て下さるしるし
生まれたれの乳飲み子は何の力もありません。弱さの極みであり、親の保護を必要とします。
救い主はこのような人の最も弱い姿で誕生されました。私たは皆弱さを抱えます。病や困窮や精神的な弱さ、欲望に対する弱さ、自我をコントロールできない弱さ、不安や恐怖におびえることもあります。しかし、キリストは人の抱えるそのような弱さを共に担うために弱さの中にお生まれになりました。弱さの中に神の恵みは十分にあります。
⓷汚れ果てた心の闇の中に来て下さるしるし
イエス様は飼い葉おけの中で生まれました。それは、もっとも遜ったもののしるしでした。家畜小屋でしたら、羊のにおいだらけの汚らしい羊飼いたちも入ることが出来ました。ベツレヘムの町の人々も彼らの行動をだれも怪しむことはありません。
神様は羊飼いがだれにも妨げられることなく救い主に近づくことのできる最善の場を用意して下さったのです。
救い主は私たちの心の一番の汚れの中に、醜さの中に、暗く他のだれにも見せることができないような汚れの中にまで来て下さる救い主です。
この喜びの知らせを今日の良き日に愛する兄弟姉妹、家族と共に喜び祝いましょう。
2024年 主の降誕を記念して。茅ケ崎、片瀬山集会