【のぞみを断ち切ることの無く】
広義を勝利に導くまでは、異邦人は彼の名に望みをかける。
イエス様は優しい方です。
葦の茎が傷ついてしまえば、もう栄養を吸い上げることもできず、成長は望めません。ただ、枯れるのを待つばかりの葦、それも、湿地に何万本も群生しているよう葦ですから、そのうちの一本を折ったからといって、誰も気にも留めない。周囲になんの影響も残さない。
むしろ、折ってしまいたくなるような弱々しさがあります。
むしろ、折ってしまいたくなるような弱々しさがあります。
傷んだものを弱々しいものを見ると何か見るものの心の中に、葛藤が起こり、そのままにしておけない負の感情が湧き上がってしまいます。
そんなときに、あえて、その一本の傷ついた葦を折らないでそーっとそのままにしておいてあげられるっていう配慮が優しさではないかと思うのです。
秋の終わりに、野放しにしていた畑の雑草をかき集めて焚き火をしました。
勢いよく燃えた後に、白い煙が昇り、くすぶっていました。まだ、燃やすものは残っていたけれど、
もう火はつかないだろうとまた火をつけようとしていたとき、友達がいやまだ大丈夫と
細かく風を送り込みながら、また、見事に火をおこしてくれました。
勢いよく燃えた後に、白い煙が昇り、くすぶっていました。まだ、燃やすものは残っていたけれど、
もう火はつかないだろうとまた火をつけようとしていたとき、友達がいやまだ大丈夫と
細かく風を送り込みながら、また、見事に火をおこしてくれました。
ほっとおけば、ただ消えてしまうようなくすぶりの燈心。いっそ、一度消してしまって、つけなおしたほうが楽です。でも、そんなくすぶっている火をあきらめずに、消そうとしない。
こういう心が優しさではないかと思うのです。
こういう心が優しさではないかと思うのです。
傷んだ葦ってどういう状態でしょうか?
人が罪責感にさいなまれている時に、己の罪をどのように償えばよいのか分らず、自分で自分を裁くほかに方法が見えず、正しさを求められたなら、ほんとうに自分の心が折れてしまうようなとき。
人が罪責感にさいなまれている時に、己の罪をどのように償えばよいのか分らず、自分で自分を裁くほかに方法が見えず、正しさを求められたなら、ほんとうに自分の心が折れてしまうようなとき。
くすぶる燈心とはどういう状態でしょうか?
愛する対象を失い、思いがけない艱難に出会い、神を信じる心を失ってしまっているとき、
どうして神様は、私にこんな試練を与えるのかと、どうしても答えを見出せないとき、
神を信じようにも、信じる力も失われ、悶々としているようなとき。
愛する対象を失い、思いがけない艱難に出会い、神を信じる心を失ってしまっているとき、
どうして神様は、私にこんな試練を与えるのかと、どうしても答えを見出せないとき、
神を信じようにも、信じる力も失われ、悶々としているようなとき。
誰でも振り返れば、傷つき、くすぶっている己の姿が引き出されてきます。
福音、もしくは恵みと言われているものは、イエス様のこの優しさに示されています。