わたしについて来なさい。という主のお言葉は信仰生活の中で、誰もが心にしっかりと受け留めておかなければならない主の御言葉です。
この御言葉は、『クリスチャンになったならば、私はどうしたらいいでしょうか?』という問いに対する主の大切な御言葉です。
わたしについて来なさいという御言葉から、
①誰についていきますか? イエス様に。
②ついていくとどうなるのですか? イエス様に似たものへと変えられる。
③ついていけるか心配です。 イエス様が導かれるあとについていくので安心です。
①イエス様を信じたら、誰についていくのかということを自分の心の中に明らかにしておかなければなりません。
洗霊を受ける証の時に、ある男性はこの先生にだったらついていこうと決心して受洗しましたと言われた兄弟がいて、この兄弟はやがて牧師につまずくだろうなと思いました。また、信仰生活とは牧師についていくことだと誤った考え方を修正もしないで、そのまま認めてしまう牧師も困ったものだと思いました。先生のキリスト教に対する考え方や先生の優しさを慕ってついていこうと思ったという方もいます。きっかけとして、指導者に導きを受けますが、
これから、私はイエス様についていきますとはっきりと宣言し、主に心を向けること、主により頼んで生きていくという姿勢を作っていくことが信仰生活の出発点として大切なことと思います。
クリスチャンというのは、イエス様についていく人々のことです。
自分でも気が付かなかったような偶像礼拝が自分の中に潜んでいたことを教えられ、膝まづかせられるときもあります。これだけは、手放したくないと握り締めていた偶像を手放すようにと促されるときもあります。
罪人である自分を深く教えられ、ますます、十字架の主を必要とする自分に変えられていきます。
ついていく最初から、自分がこれからさき何が起こってどう変わってどんな実を結んでいくのか分かるわけではありません。
クリスチャンの歩みは、イエス様についていっているときは、必死であったり、わけが分からなかったり、混乱の中にいたりということもあり、振り返ってみるとイエス様がいつも一緒にいてくださったのだと思えるものです。
決して、信者が先頭にたって道を切り開いていくことではありません。
イエス様はよい牧者ですから、迷える私たちを先頭にたって導いてくださいます。
集会メッセージ要旨2012.7.28