主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

生ける神を礼拝するように  ヘブル9:14

「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを通りこそう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びの災いは起こらない。」出エジプト12章13節
今日はイエス様の流された十字架の血潮の価値についてご一緒に学んでいきたいと思います。イエス様の血潮の価値について二つの面から学びたいと思います。一つは、イエス様が十字架で血を流されたことによって、神様は何をしてくださったのか。もう一つは、イエス様が血を流されたことによって、私たちの立場はどう変わったのかということです。
 ローマ書で読んだように、クリスチャン生活とは神様に礼拝をささげる生活。私たちの体を神に捧げて歩む生活、ヘブル書で読んだように、生ける神に仕える生活です。イエス様もスカルの井戸の傍らで、女に、霊とまことによって父を礼拝する時が来るとおっしゃいました。
 では、私たちは生ける真の神に仕えているでしょうか。どのようにしたら、生ける真の神に仕え、父なる神を霊とまことによって礼拝する者となるのでしょうか。このことに関する基本的な真理を学ぶ必要があります。
 1:まず、神様はイエス様の十字架を通して何をなされたのかを学んでいきましょう。
出エジプト記12章の出来事は、クリスチャンにとっても非常に象徴的な出来事です。
エジプトとは一般に悪魔の支配するこの世を指し、肉の世界を現しています。エジプトを脱出するとは、滅び行くこの世の支配を脱し、滅びることの無い永遠の命の世界、神の子として歩む世界へ移ることを意味しています。
 神様は、エジプトへの9つの災いの最後に、エジプトのすべての初子を打つとされました。同時に、神様は、エジプト人イスラエル人を区別し、(出エ11:7)イスラエル人だけが災いに遭わないように保護されました。そのために、神様が指定された方法が重要なことです。それは、家ごとに傷のない一歳の子羊をほふり、その血を家の門柱とかもいに塗りつけるという方法でした。そして、神様は、2本の門柱とかもいに血が塗られていることを見るならば、その家を通り過ぎ、滅びのわざわいをもたらさないとイスラエルの民に約束をされたのです。
大切な点は、
1:神様はその血を見るだけで満足されたということ。
2:その血を見るだけで、家の中の者は問題にせず、その家を通り過ぎられたということです。
この出来事は、言うまでも無く、十字架の上で流されたイエス様の血潮を意味しています。
1:神様は、イエス様が全く罪を犯すことなく、完全に父なる神に従われた方(人)であったので、イエス様を完全なる犠牲として認められ、イエス様のその犠牲をみて完全に満足されました。つまり、それ以上の犠牲はもはや必要でないとされたのです。神様は、イエス様の血を見て、満足されたのです。
2:神様は、イエス様の犠牲により、満足されたので、イエス様の十字架の血潮により頼む人々を滅ぼす必要は全くなくなりました。イエス様の十字架により頼む人々を区別され、そして保護されたのです。つまり、神の怒りを免れ、滅ぼされること無く永遠の命を保障されたのです。
エス様の血潮は、私たちを神の怒りから免れさせます。
エス様の血潮は、私たちを滅びから救います。
エス様の血潮は、私たちをこの世から解放します。
エジプトの生活を引きずりながら、神の民として生きることはできません。
エジプトの物はすべて捨て去り、滅ぼし尽くされなければならないのです。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません、」ヨハネ3章3節
2:次に、イエス様の十字架の血潮により、私たちの立場はどう変わったのでしょうか。
生けるまことの神に仕える者という視点より見てみたいと思います。
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12章1節
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10章22節)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするでしょう。」(ヘブル9章14節)

①イエス様の流された血潮の価値を知る者は、良心のとがめが消え去ります。
良心に咎めがあるとは、自分には罪があり、自分は神に近づく資格が未だに無いのではないかと神に近づくことを躊躇させる心の状態を指します。イエス様を信じているにもかかわらず、己の罪が気になり、大胆に神に近づくことができないのは、イエス様の流された血潮の価値を知らないからです。
また、神の臨在の中に入りたい、神様の臨在の中で神を礼拝したいと願いつつ、どこかいつも一枚の幕によって、神と自分が分け隔てられていると感じてしまい、満足のいく礼拝を捧げられないクリスチャンもまたイエス様の血潮の価値を十分に教えられていない者と言えます。
 ②イエス様の血が流されたということは、もはや決して、私たちの罪と不法は思い出されることはないということです。
「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(ヘブル10:17)
エス様の血潮により頼むことを知っているクリスチャンは、己の罪が深ければ深いほど、イエス様が十字架の上で流された血を見つめます。
エス様の血によりすべての罪がきよめられていることを信仰により認めない限り、良心の呵責がぬぐい去られないということを良く知っているからです。このことを知らないクリスチャンは、再び宗教的な行為に走り、己の行為によって清められようとしてしまいます。それは、全く無駄なことです。
③イエス様の血によってのみ、私たちは大胆に父なる神様の御前に近づくことができます。
人は、信じた後も罪を犯します。しかし、そのすべての罪はすべて赦されています。
しかし、その罪を心に残したままでは、良心が己を訴え、(サタンが訴え)私たちは自分自身を神の御前に役立たない者になってしまったと意気消沈してしまうことでしょう。そのようなときにこそ、イエス様の十字架を見上げて、そこに私の罪の赦しがあることを信じてこそ、良心のとがめが消え去り、再び大胆に生ける神に仕える者とされるのです。
④もう一つ、大切なことを付け加えるならば(一番大切なことです)、イエス様の血潮によって私たちは至聖所に入り、まことの礼拝を捧げることができるということです。
まことの礼拝はどこで捧げられるものでしょうか?それは、至聖所(しせいじょ)と呼ばれるところです。そこは神の臨在に満ち、全く罪の無い者だけが入れる場所です。一体誰が罪の無い者でしょうか。罪の無い人間は一人もいません。いや、ただ一人、イエス様だけが罪の無い御方でした。至聖所に入ることのできる方は、イエス様だけのはずです。
ところが、イエス様の流された血潮により頼む者は、イエス様の血の価値ゆえに、イエス様と共に至聖所に入り、父なる神様にまことの礼拝を捧げる特権を得るのです。
至聖所におられる父なる神に礼拝を捧げることこそ、人としての最高の価値です。
至聖所において、まことの礼拝を捧げ、そして、生けるまことの神に仕えることこそ、人の本来の喜びなのです。
どんな罪人でも、イエス様の血潮により頼むならば、無条件で、この特権に預かれるとはなんと主の血潮は尊いことでしょうか。
感謝なことです。
2011.1
集会メッセージ要約
新年集会のお知らせ⇒1月29日(土)
午後2時より
場所:自宅(戸塚深谷