主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。黙示録5章14節

主イエス様ご自身に真心からの礼拝をもっともっと捧げましょう。

1:礼拝の心
礼拝の心のクライマックスは、『ひれ臥す』ことであると私は思います。
日本人ならだれでもイメージできるように、侍が地面に手をつき、額が地面につくほどに下げ、刀を主君の前に差し出しながら平伏する、その姿勢こと礼拝の姿ではないかと思います。
私たちのほうから、何かをするという行為さえもすべて投げ出して、ただただ頭を下げる、いや、主君の偉大さの前に、まったく頭が上がらない、そのような心で主君の前にいること。
主に『礼』を捧げるのが礼拝です。
黙示録5章には、主イエス様自身への『礼』が捧げられるまでの道筋についても描かれています。
実は、4章においては創造主である父なる神様への礼拝が同じようにささげられていますが、そこには、主イエス様への礼拝はまだ登場していません。
私にとっては、父なる神様への礼拝だけでは、物足りない思いがいつもあります。
教会の礼拝式の中で、父なる神様への礼拝が捧げられているのは、一般的であるかと思いますが、
私個人としては、何よりも主イエス様へ『礼』を捧げたいという思いが強く、父なる神様への礼拝だけでは物足りなく感じてしまうのです。例えば、『父なる神様、私たちの罪のために、御子イエス様を与えて下さり感謝します』という信仰告白では、御子を与えて下さった父なる神様への感謝の言い表しであり、御子イエス様ご自身への感謝ではありません。『イエス様、私のために命を捨てて下さり感謝します』という信仰告白になれば、感謝の対象は、イエス様に向かいます。
また、感謝と、賛美とひれ伏す『礼』はその人の心の態度が違います。
感謝は、受けた人の思いの表現です。救いを与えて下さり、『ありがとう』ということ、与えてくれた方への人の思いです。賛美は、与えて下さる方の属性を褒めたたえることであり、その対象は与えて下さる方に向かいますが、
そこには、まだ人として応答(言葉、歌)が含まれています。
しかし、『礼』には、もはや人の行為はありません。感謝と賛美には、人の言葉や歌がありますが、『礼』にはただひれ伏し、無言になります。それは、もはや主の偉大さ、威光、尊厳、の前に人は言葉を失うからであります。

主イエス様が何を為されたかをまず言い表すこと。
9節『ご自分の血で。神のために人々を贖われ、』
主イエス様の十字架の御業を言い表していくことから始められています。

主イエス様の神としての神性を賛美すること。
11節『屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい方です』
この11節の言い表し、信仰告白は、賛美とは何であるかの素晴らしい例であるといえます。
主イエス様の属性を力の限り、心の底から徹底的に褒めたたえることです。

十分に主イエス様が褒めたたえられたのちに、みなが膝をかがめ、地に平伏して、主ご自身を礼拝するのです。
ここに、礼拝のクライマックスがあります。
ここにまで至って、私たちは、主イエス様へ礼拝をささげたことになるのではないでしょうか。

2:ヨハネの驚き



2016.9.25茅ヶ崎集会