主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

礼拝における神様の働きかけと人の応答。出エジプト記34章から。

エス様の祈り、祈りの姿 「礼拝への備え」
ルカ6章12節『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。』
エス様は、大切なことを決定するときに、祈りました。イエス様は、出来事を始める前に、祈りを持たれていました。
父なる神様との親密な交わりこそ、神様の御心にそった歩みを可能とするのです。主様のそばに侍っていることは、とても大切なことです。
エス様はいつも父なる神様のそばにいましたが、同じように、イエス様の選ばれた12弟子も、まず第一にイエス様のそばにいるということが求められたことでした。 
エス様は祈るための場所に移動されたことが分かります。
モーセも神の律法を授けられるときに、ただ一人で、シナイ山に登られました。
モーセに見られる祈りの姿」 モーセもまたイエス様の姿を現しています。
出エジプト記34章1節から35節
 
礼拝、そして、祈り、神様は人とコミュニケーションをされる方、神様から働きかけと人の応答、また人の応答に対する神様からの働きかけと交互に双方向に進まれることを知ります。 
 
【礼拝の準備、神の側から】
1,2節 主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。 あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい。
礼拝は神様からの招きによって始まります。罪人である私たちは、神様の招きがなくしてどうして神に近づくことができるでしょうか。イエス様の十字架のあがないによって罪赦された罪人は神に招かれ、神に誉れを帰することができるのです。神様は私たちを礼拝者へと招いておられます。神様の礼拝への招きに応じましょう。
【礼拝の準備、人の側から】
さて、神様に招かれた人はどのように備えればよいのでしょうか。
2節 あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい。
    朝までに準備をする。朝のうちに登るということは、ほかの用事を始める前よりも、先に、まず、ということです。神様に礼拝をささげるという行為は、私たちの日常の行為に先立って優先される心が大切であることを教えられます。また、朝までに備えをするということは、前の晩にすでに用意が始まっていることを意味します。私たちは、弱い肉体を持っています。疲れれば、動けません。礼拝に備えること自体が信仰の戦いを必要とする場合もあります。朝早く礼拝を捧げられることをまず主に祈り求める心が必要です。 
    礼拝において、主は語られます。主の御声を心にしっかりと留めるという心の準備を持つこと。聞き逃さないようにと、主の言葉を書き記すという準備も必要であることを教えられます。
    礼拝はその山の頂にて、主ご自身の前に立つことから始まる。
 
 
3節 だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない。また山の前で羊や牛を飼っていてはならない」。
    羊飼いにとって、生活の中で羊ほど大切な存在はいません。しかし、生活で一番大切なことさえ、礼拝の時には、心の中においておいてはならないのです。
   礼拝は、この世に対しての思い、また家族、知人に対しての思い、その全てを置き去って、唯一、主の前に出ることです。 自分の意識の中に神様以外のものをおいてはいけないという心の姿勢を求められています。
・心の思いを主に委ねて、心の騒ぎを静めて、鎮まって主の御声を聞く用意をしていく必要がある。
・隣人に対しての恨み心、さばきの心、ゆるせない心、などを十字架の前に差し出して、対処して頂く必要があります。
・様々な働きから心を解放して、主だけに心を向けることです。
・さまざまな思い煩いから解放されるためには、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ、イエス様の上に心の思い煩いを置くことです。
・イエス様は礼拝の中心、対象であると同時に礼拝に向かう私たちの心を備えて下さる御方です。礼拝は、初めから終わりまでイエス様の恵みの業によって進められていくのです。
 
【神様の側から】
5節 ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。
    礼拝は、聖霊の臨在の中でなされます。聖霊の豊かな臨在の中でこそ、真の礼拝が捧げられる  のです。助け主である聖霊は私たちを礼拝者へと整えると共に、御言葉を悟り、知恵を与え  る方です。
礼拝には、聖霊が共におられることを意識し、信頼しましょう。主は、聖霊によって共にいて下さり、語りかけて下さることを信じて、期待する心を持ちましょう。
・主の名を宣べられるということは、主の権威が明らかにされるということです。礼拝は、牧師や教会名や参加者の人数や装飾の素晴らしさなどが権威となるのではなく、ただ主イエス様の権威だけが明らかにされるところです。教会の礼拝においてこそ、すべての主権の上におられる主イエス・キリスト様の権威が宣言されるとはなんと素晴らしいことでしょうか。
 
6節 7節 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。
     礼拝の中で主は語られる。    ・それゆえ、礼拝のときには、御言葉を黙想しつつ、主が語りかけて下さることに耳を傾ける。
・神様はご自身を言い表される。『主は、憐れみ深く、情け深い神、怒るに遅く、恵みとまことに富み。。』(6,7)礼拝においては、まず主ご自身がどのようなご人格を御持ちの御方であるかということに心を向けます。そして、主の憐れみ深さを心に満たしてこそ、人は、主の憐れみ深さの前にひれ伏し、真の礼拝者へと導かれるのです。   
 8節 モーセは急ぎ地に伏して拝し、
  【人の側から】
    ・神様の愛の深さに、ひざまずき、主を礼拝する、礼拝の心を態度で現すとしたら、主の御前に膝まづくことです。頭を深く垂れ、平伏する姿勢です。まことの礼拝は、讃美の姿勢よりもさらに一歩進んで、ひれ伏し、自分の言葉も失ってしまう心、感服いたしましたというただただ頭が下がるという心の持ち方ではないでしょうか。
    ・主の恵み深さを教えられて、人は応答します。
  
9節 そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。
    礼拝は私たちの歩みが変化することです。私たちの心が礼拝の中で修正され、神の御心の己の心が一致していく過程です。私たちの願いどおりになることではなく、『主が私たちの中にいて、進んで下さること』つまり、私たちの肉の思いが消え、主の御思いが私たちの心を支配し、主様の願いどおりになっていくためにある。礼拝式が終わって、教会を出ると、古い自分に戻ってしまうのは、礼拝を捧げたことになりません。礼拝の中で神に出会ったともいえません。
    礼拝は、罪の悔い改めと、赦しを願うこと、そして、主の聖の中に立ち返ること。(9)
    【神様の側から】
10節 主は言われた、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしは地のいずこにも、いかなる民のうちにも、いまだ行われたことのない不思議を、あなたのすべての民の前に行うであろう。あなたが共に住む民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたのためになそうとすることは、恐るべきものだからである。
11節 わたしが、きょう、あなたに命じることを守りなさい。
礼拝において、神様は私たちのなすべきこと示される。・主は私たちと御言葉によって、契約を結んで下さる。
  【人の側から】  
29節 モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。 アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。
  ・礼拝を終えた神の民は神様の臨在に包まれています、キリストの香りを放つっています
35節 イスラエルの人々はモーセの顔を見ると、モーセの顔の皮が光を放っていた。モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた。
  真の礼拝者の特徴は、謙遜です。神様の臨在とキリストの香りに包まれた礼拝者は、人々からも称賛を浴びようとするかもしれません。しかし、真の礼拝者はその香りと威光がどこから来ているのかを知っており、決して自分を現したり誇ったりはしないものです。
  
  こうして全体をみると、神様はモーセと語り合いながら、ご自身を現し、モーセに使命を託されたことが教えられます。礼拝とは、神様と人とのコミュニケーションが交わされる大切な時と言えることでしょう。礼拝それは、祈りの時と言い換えることもできます。
 
2013.7集会メッセージ要旨。