主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

それをほどいて、わたしのもとへ連れて来なさい。マタイ21章2節

向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいることに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところへ連れて来なさい。       マタイ21章2節
 
ロバは生活の物資を運ぶ大切な家畜です。イスラエルの山岳地帯で荷を運ぶのに有用な動物です。
小さな小道も、山道も人のあとをついて上っていくことができます。
だだ、ロバの一生とは、ただ人の荷物を負って、歩き続けるものでした。
ロバは、生活の物資を背負い、地面を一生見つめつつ歩み続けるのです。
ロバは村の中に生き、地の杭につながれて、自由のない身分です。
 
エス様は小さいけれど力持ちで有用なロバをご自分のエルサレムの入場の際に、
ご自分を乗せる手段として用いられました。
 
エス様は二人の弟子を遣わし、ロバを見つけ出し、そのロバのつなを解いてご自分の元に連れてくるようにと命じました。イエス様の元に連れてこられたロバは弟子たちの上着を乗せられ、その姿は隠され、そしてその上にイエス様をお乗せしました。人々はイエス様を見ては、イエス様を王として迎え、イエス様に礼拝・賛美を奉げられました。
 
1:弟子たち(教会)のミニストリー
弟子の働きの一つに、イエス様に有用な人物を見出して、訓練をして、イエス様の御許へ連れてゆく働きがあります。能力があるけれども、地に縛られて、主の御用のために十分に生かされていない人物が教会の中にはいます。そのような器をしっかりと見つけ出し、主の御許へ連れ行くようにスカウトするのです。
 
主の器となるための障害は、地につながれていることです。地とは、古い肉の性質であり、この世の霊力に仕えようとする種々の悪い習慣です。
地との鎖から主の器を解放、解かなければなりません。
 
まず、解かなければならないのは、罪の縛りです。罪から解放されなければ、主の器となることはできません。
しかし、罪から解放されても、まだまだこの世の世界への執着に捕われている者はたくさんいます。
古い悪習慣のなわから解かれることが必要です。
今まで、淫乱・好色の世界にいた者は、罪から救われても、なおその古い習慣から抜け出すことには、他の弟子たちの助けを必要とすることでしょう。
今まで、暴力の世界にいた者も同様に、暴力の世界から抜け出すだめには、他の弟子たちの助けを必要とすることでしょう。
この世の名誉と権勢の中にいた者は、名誉や権勢の魔力から解放されるのは、やはり、他の兄弟姉妹の助けを必要とするのです。
誰が弟子たちの中で一番偉いか?と神の国の世界をこの世の価値観と同じであるかのように勘違いしている若い兄弟姉妹に、正しく神の国を教え、主の入用に役立つ者としていく必要があります。
すでに救われ、様々な苦難や誘惑のわなを切り抜けて主に仕えている兄弟姉妹は、救われたばかりの幼い兄弟姉妹を霊的に保護し、養い、過去の悪習慣から離れることができるように手助けする任務があるのです。
 
もちろん、人が人を助けることができるのではなく、悪習慣に捕われている者を、イエス様の元へ連れてゆくことによって、その悪習慣からも解放されるのです。
 
みなそれぞれの悪習慣から解放され、主の御許にまで連れて来れれてこそ、主の入用を満たす器となれるのです。
ロバの子に弟子たちの上着がかけられたとは、上記のように、他の弟子たちによって、訓練をほどこされた様子を表しています。
救われた者がすぐに主の入用に応じられるのではなく、教会(弟子)によって、育てられてこそ、主をお乗せする用に用いられるのです。
 
2:主の入用とは。
主を乗せたロバの姿は人々の前には見ることが出来ませんでした。上着を着せられ、イエス様を乗せれば、人々の目はロバではなく、イエス様だけに注がれます。
 
主がお入用であるとは、主の臨在を持ち運ぶ器となることであり、主だけに誉れが帰されるようになることです。
決して、その人が人々に誉められるようになることではありません。
自分という人が目立ちたいと心に願う人に、主は臨在されません。また、地につながれたままの人にも主は臨在されません。
地より解放され、低くされ、ただ主だけに栄光が帰されることを願う心を持つ者に主は乗られ、そして、主が栄光を受けられるのです。
 
主の元へゆき、主の臨在を持ち運ぶ器となるように。
集会メッセージ要旨2011.6.25