主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

それから、イエスは。彼の家で食卓に着かれた。マルコ2:15

「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ちあがって従った。
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。        マルコによる福音書2章14,15節

【イエス様とともに食事をする】
エス様は罪人の友として、罪人を招きましたが、
エス様の招きは、まず私たちがイエス様の御許に座り、食事をともにするためにあるということが分かります。
 
マタイが弟子としての働きを始める最初に、イエス様を招き、イエス様とともに食事をしたということは、私たちの信仰生活に大切な視点を与えてくれます。
 
取税人マタイはイエス様に呼ばれて、何もかも捨ててイエス様に従うために立ち上がりました。そのあと、マタイはイエス様を自宅に招いて一緒に食事をし、イエス様をもてなすとともにイエス様のもてなしを十分に受けました。
マタイは、宣教の開始前に、イエス様とともに食事をしたことにより、マタイは、過去の傷の癒しを受け、イエス様との交わりによって自分自身を取り戻し、イエス様の弟子として歩むための十分な養いと受けたことでしょう。
 
エス様とともに食事をするということはどういうことでしょうか?
エス様は十字架の上で罪のあがないの御業を成し遂げられた後に、よみがえられ天に昇られ、父なる神様の右に坐されました。これは、エペソ書1:3「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とありますが、イエス様は再び神の右の座に着かれた後、私たちにゆたかな霊的な祝福を分かつ立場に着かれたということも現しています。
私たちの現在の立場は、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:6)とあるとおりに、私たちもキリストとともに天の所に坐しているのです。
 イエス様の贖いによって、私たちは本来の神の子供としての身分を回復し、本来私たちに用意されていた
霊のもろもろの祝福を受け継ぐことが許されたのです。
ですから、イエス様とともに食事をするとは、この霊的な祝福の回復であるということができます。
  
私たちの信仰生活にも、このイエス様の招きに応じて、イエス様とともに食事をするということが非常に大切です。
エス様の御許にいてこそ、私たちは豊かな霊的な祝福を受け取ることができます。
それは、癒しであり、信仰であり、また力であり、命・・であります。
信仰生活に必要なすべてのものは、イエス様の御許にあるのであり、私たち人の中にあるのではありません。
 イエス様の御許に座る、侍るということなしには、どんなに熱心に教会の活動をしたとしても、その実はむなしいものでしょう。
 
私たちは、マルコの2章14,15節から、信仰生活を進めるにおいてイエス様とともに食事をすることの重要性を学ぶことができます。
 
2013.1.27 メッセージ要旨