主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主を喜ぶ心

永遠に変わらない神様の愛を受けて働く~主を喜ぶ心~
今日は、ぶどう園を通して、天の御国を教えようとされていますが、天の御国は・・主人のようなものです』とイエス様がおっしゃっていますので、主人がどのような方であるのかということに心を留めることが重要なことかと思います。
Ⅰ〈ぶどう園〉とは。ぶどう園は収穫の時期に多くの労働者を必要とします。ぶどうは神様の祝福を象徴します。ヨシュアとカレブがカナンの地を偵察に行ったときに(民数記1323節)、祝福された地の証として、ぶどうのふさを担いで来ました。
     ぶどう園は神様の祝福を表す、神の支配するところであり、
     ぶどう園は、救われた人間が神の御前で生きる場所です。
・ ぶどう園は、神によって与えられる働きの場です。
それは、神によって雇われた者が招かれる所。それは、召された者たちのこの世における生活の場でもあります。
Ⅱ〈ぶどう園の主人〉の心を学ぶ
主人の心。
① 探しだそうと自ら歩みよる神様の姿。
朝早く出かけた。自分のぶどう園に招き入れる労働者を自ら率先して探しに出かけて、待っている主人。失われた人々を自ら探しだそうと自ら歩みよる神様の姿です。
主人は幾度も広場へ足を運びました。労働者には、何の資格もなしに、ただ主人の招きに応じたものはすべて主人のぶどう園で働くことがゆるされたことを知ります。神様は常に、誰に対しても、自分の畑へ、神の僕として招いていることを教えられます。
 
②すべての罪人を招いてくれる神様
人は、本来、神のもとでエデンの園を管理するものとして創られたが、神の命令にそむいたために、エデンの園から追い出されてしまいました。それゆえ、もうひとたび神のもとで働くためには、神によってもう一度見つけ出され、呼ばれ招かれなければならなくなったのです。
     神は、ご自分のぶどう園でもう一度、失われた人々(何もすることもなく立ち尽している人々、目的、を見失っている人)を雇い入れ、ご自分の園に迎え入れようとしているお方なのです。
③恵みの契約を結ばれる神様
2010「彼らもやはり一人1デナリオンであった」とは。
1デナリオンは、一日の労働賃金に相当する額であった。これによって、一日、生きることができた。主人は労働者に対して、どれだけの時間と量の働きをしたからといって、その報酬として、1デナリオンを与えたのではない。1デナリオンを与えたのは主人の元で働いてくれた、主人と僕という関係を結んだという保障、印として与えたのである。
恵みによる契約
神様の契約は変わらない。それは、イエス様の命の代価によって約束された血の契約です。
つまり、神様は人間との関係、主人と労働者という関係を持つときに、命(神の賜物、神の命)を約束として与えたのである。すなわち、神の招きを受けて、キリストを信じて、神との新しい関係に入れていただくのである。神との新しい関係に入れられた時に、神より恵みとして神の命を頂くのである。これは、神の恵みである。 
④主人は、「最後のものにも同じように上げたい」という憐れみ深い神様。
すべてのものが1デナリオンをもらったということは、神の恵みの性質を現しています。
神より与えられている恵みは皆等しいのです。
救われたクリスチャンの究極的な姿は、イエス様とともに十字架にかけられた犯罪人の一人ではないかと思います。
ルカ234243
『そして、言った。イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。イエスは、彼に言われた。まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』
彼は天国に入ってどれだけ喜んだことか。彼も同じように神様から1デナリをいただけたのです。
 
Ⅲすべての労働者に同じ報酬を与えられる神様
9時、12時、3時、5時」
 これは、クリスチャンの様々な立場と現していると思われます。
・朝早く雇われた労働者:元気な者から、雇われていく
     夕方になって雇われた労働者:だれも雇ってくれない。年寄り、弱い者、役立たない者は最後まで雇われないで、市場に残っている。そして、働きのできなかった者です。
「一日1デナリオン」とは。
1)神が人を愛する愛である。神様の愛は変わらない。すべての人に対して変わることはない。それは、熱心に働いたとか、長い時間働いたとか、苦労したとか、どれだけ大きな収穫を得たとかによって変わるものではない。神様からの愛は、人の働きの報酬でも対価でもなく、恵みであり、恩寵であり、無条件に与えられるものである。
2)イエス様を信じる者に無条件に永遠の命である。それは、初めから、約束されているものであり、(ぶどう園に行くときから、つまり、救われたときから、信仰生活を始めるときから)それはすべて信じる者に平等に与えられるものである。それは、信じるだけでよいのであり、若いときから主を信じた者も、晩年になって主を信じた者も、弱い者も、社会の落ちこぼれも、病気のものも、神様のために、一見何の働きもできないものも みな同じだけ与えられる。
⑤「私は気前が良い」といわれる方、惜しみなく与えられる神様
20:15「自分のものを自分の思うようにしては、いけないのか」
与え主が誰であるのかを教えている。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」(ヨハネ3:27)とあるとおりである。
恵みは働きの報酬ではない。神の賜物である。神の一方的な権利によって人に与えられるものである。
神様は、イエス様を信じる者に無条件に永遠の命を与えられる。それは、初めから、約束されているものであり、(ぶどう園に行くときから、つまり、救われたときから、信仰生活を始めるときから)それはすべて信じる者に平等に与えられるものである。それは、信じるだけでよいのであり、若いときから主を信じた者も、晩年になって主を信じた者も、
弱い者も、社会の落ちこぼれも、病気のものも、神様のために、一見何の働きもできないものも みな同じだけ与えられる。
 
まとめ 
①主を喜ぶ心を忘れない。
自分の働きの大きさではなく、雇ってくださった神、契約を与えてくれた神を喜ぶ。
誰が一番喜んだか?
それは、最後に雇われた労働者であろう。もう、雇われないと思っていたのに、主人に目を留めてもらった嬉しさ。最初の者と同じだけ賃金を渡してくれた主人の心の広さに感激したに違いありません。
雇われた喜び
・最初は皆の最初の喜びは、賃金ではなかった。雇われたことが喜びであった。そして、その喜びによって彼らは、皆働き始めたのである。
・彼らは、すでに最高のものを与えられているのである。
最高のものとは、主人の雇い人になれたこと、つまり、神の子とされたこと。それも、無条件で雇われた(神の子とされた)ことである。
神との出会いこそ、私たちの最高の喜びである。 
②恵みの契約を忘れない
自分の分を受け取って帰りなさい。
人の働きの大小は神様の目からみれば、小さなもの。
神様は、無限の愛を気前よく与えたいといつも願っている方です。
恵みを知ること、恵みに目を留めることが大切です。恵みに目を留める信仰生活は安定しています。
私たちはやがて、何の働きもすることのできなくなるときが来ます。自分で自分の命も保てなくなるときがくる。けれども、神様は元気に働けていたときも、元気に働けなくなった今も、全く同じようにしてあげたいと言ってくださる。つまり、あなたへの永遠の愛は変わらないといってくださる。
私たちの存在は、この世の評価によって変わるようなものではなく、
この世の評価によらず、永遠に価値あるもの、神がひとり子イエス様を与えて下さったほどの無限の愛をもって私たちを愛しておられる、ということに信仰の土台を置く人は幸いです。
自分の働きの大きさではなく、雇ってくださった神、
その愛を与えて下さった神を喜ぶ心を忘れない、
恵みの契約を与えてくれた神を喜ぶ。ことを覚えて、新しい一週間を進んでまいりましょう。
2011.10.30礼拝メッセージ要旨