主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。イザヤ53:11

愛する姉妹へ
 
私は聖書からしか答えようがないので、申し訳ありませんが
人はどんなに正しく歩もうとしても歩むことの出来ない、過ちをおかしながら生きるしかない、神様を喜ばすことの出来ない罪ある存在であることを聖書は教えています。
 
正しく過ちなく歩くことの出来た方は全世界で唯一ナザレにお生まれになったイエス様しかおられません。
この方だけが唯一神様を喜ばすこと歩みをすることが出来た方です。
人に純粋な愛はなく、いつも自己愛と情欲が絡まってしか人や神を愛することが出来ないものです。
純粋な愛で神と人を愛せたのはやはりイエス様しかおられませんでした。
このように不完全な生き方しか出来ない人のすべての営みが罪なのです。
神に喜ばれる正しい生き方をしたいと願い努力する事こそもまた人の罪そのものです。
しかし、神様は、人に完全になることを望まれたのではなく、不完全なままに罪あるままに生きることを赦していてくださったのです。
 
それは、人の代わりにイエス様が神に喜ばれる生き方を十字架の死に至るまでに全うされているからです。
神様にとっては十字架につけられたイエス様を見るだけで十分に満足されたので、イエス様の十字架の下にいる人の罪をいちいち数えたりなさいません。
 
エス様の十字架のあがないのすばらしさは計り知れないと思います。
人の罪深さによって、神様の聖なる御名が汚されることがないために、
人のすべての過ちもイエス様を信じることで益に変わりました。
どんな罪深い人の歩みであっても、すべてのことが相働いて益としてくださるのです。
 
私はこの真理を教えられてからは、自分が嫌になるという思いは消えていった気がします。
要するに、もともと自分には良いところは何もないし、神様を喜ばすことも何も出来ないと教えられたので。
 
一方的に神様に愛されていることに満足しています。
自分が神様の為に何をするかよりも神様が私の為に何をしてくださったかをよく見ることが大切かと思います。