1.マグニフィカート
マグニフィカートはマリアを称える賛歌ではありません。
マリアは、エリザベトから『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』と励ましを受けた後に、
このマグニフィカートを謳いました。
これは神様から頂いた恵みに対する応答です。
私たちはみな神様から恵みを受けています。
そして、その応答として私たちの魂は主を崇め私たちの霊は神を喜び歌うのです。
このような恵みの応答を主に捧げているでしょうか。
そして、この詩の美しさはどこにあるのでしょうか。
それは、主のみがほめたたえられていること
そして、マリア自身の謙遜さがよく表わされているところにあるのではないでしょうか。
2.主をあがめる。
46~47節
人のなすことのでいる最高の行いは何であるかが記されています。それは、主への礼拝です。主をほめたたえることこそ、人に与えられた最高の特権です。
この詩は主への礼拝から始まっています。人に霊が与えられたのは主を喜ぶためであるのです。
わたしの魂は主をあがめ、
移り変わるこの世の栄華や他人との比較、自己賞賛、自己憐憫、自分自身に向かってしまいがちな私たちの思いや、感情や意志を主に向ける事こそ、私たちに与えられた喜びの源です。
わたしの霊は
私たちは心の底から(霊から)神を喜びます。
マリアはこれから先自分にどのような人生が待ち受けていくかを知る由もありませんでした。しかし、マリアは、主が自分自身に目を留めて下さったことで十分でした。
3.幸いな人
48節
幸いな人とはどのような人でしょうか。マリヤは自分自身を幸いな者と言うことができました。『わたしは幸せ者です』と人々の前で言える者は何と幸いなのでしょうか。
普通、『あの人は幸せ者だ』と言われる時には、多少、侮蔑の意味が含まれています。それは、世間知らず、世の苦労を知らない・・。
皆、幸せを求めているはずですが、本当にわたしは幸せになっていいのだろうか。
こんなに恵まれていていいのだろうか、幸せになることは私ふさわしくないのではないだろうかと思っている人もあるのではないでしょうか。
どこに幸いがあるのでしょうか。
・マリヤは自分自身を主のはしため、身分の低い者であると日々自覚していました。
・マリヤには天使の言葉をまっすぐに受け入れる素直さがありました。
・主は、自分自身無に等しい・小さい者・取り柄の無い者と自覚している者に目を留めて下さいます。
・人の幸せは、人に認められるところにあるのではなく、私たちを造られた神に認められるところにあります。
そのことをマリアは私たちに教えて下さいました。
私たちは、神から恵みを受けることを恐れてはなりません。
偽りの謙遜によって、私は神の恵みを受けるにふさわしくないと言ってはいけません。
わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
ヨハネ10章10節
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
ヨハネ15章11節
マリアは謙遜な人でした。
謙遜さとは私のうちには何もないからこそ、主からすべてを喜んで受け入れられる人です。
私は、もう十分ですとか、この祝福は私にはふさわしくないと拒む者はまだ自分のうちに何かがあると思っている人であり、それは謙遜ではないのです。
私には救いは必要ない、私は救われるにはふさわしくないと神の恵みを拒んではいないでしょうか。
4.神の偉大さを言い表す。
49節
マリアは神様がどれほど偉大な方であるかを言い表しました。
マリアは、神様の御名の尊さを言い表しました。
マリアは神様にこそ力があることを言い表しました。
私たちもイエス様の御名を言い表しましょう。
イエス様からいただいた恵みを褒めたたえましょう。
イエス様がどれだけ恵み深く、憐み深く、慈しみに富んだ御方であるかを言い表しましょう。イエス様の尊さ・偉大さを日々口ずさみましょう。
神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです。 エペソ1章6節
5.主を畏れる。
50~55節
いつの時代にも変わらない真理とは、主を畏れかしこむ者に対して主は憐み深い方であることです。
私たちの主であるイエス様は、
貧しい者、
悲しんでいる者、
重荷をおっている者
迫害を受けている者
さげすまれている者
孤独な者
義のために苦しんでいる者
に目を留めて下さいます。
そして、主は憐みをいつまでもお忘れになることはない御方です。
マリアは主ご自身が王の王としてイスラエルを統べ治める姿を預言し、謳いました。
この預言こそ、救いを待ち望む全ての民の希望です。
マリヤはなんとこの預言の主であり、王となる御方をこの身に宿したのです。
なんと幸いな女性であったことでしょうか。
2021.12.12 茅ヶ崎集会