シモン、シモン。見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
ルカ22:31,32
【イエス様は天のやり取りを知っておられる】
イエス様は、父なる神様とサタンとのやりとりを目の前で見ていた。
それは、サタンがヨブに対して誘惑することを神に願い求めて許されたように、
シモンに対しても誘惑することを神に願い求めて許された光景をイエス様は見ておられた。
イエス様は天上で行われていることが何であるかを地上にいながらも知っておられるのである。
しかし、イエス様はそのやり取りを見ておられながら、神様とサタンの間に直接介入し、
サタンの誘惑を止めようとはされなかった。
それはなぜか。
それは、イエス様は地上に人の子としておられ、たとえ天上での出来事をすべてご存じであっても、
人の子ゆえにご自分では介入はなされず、なすことすべてにすべて父なる神様の許しを必要とされたから。
【キリストとしての職位】
ではイエス様は、シモンに対する誘惑を知っていながら、見過ごすようなことはあったのでしょうか?
いいえ、イエス様は、キリストとしての職位のゆえに、
人と神との間をとりなすことをしないということはありえないことでしょう。
ですから、イエス様はサタンの誘惑の許可が下りると同時に、父なる神様に願い求め、
父なる神様も直ちにイエス様のとりなしの願いを聞き届けられました。
もし、一瞬でもイエス様のとりなしが遅れるようなことがあったとしたら、
ペトロはあった言う間にサタンの攻略に陥り、取り返しのつかない事態になっていたことでしょう。
しかし、イエス様はどうして、サタンの誘惑を避けるように願い求めたのではなく、
ペテロの信仰がなくならないようにと祈り求めたのでしょうか?
それは、ペテロに弟子としての深みを持たせるために。
ここに、クリスチャンの遭遇する誘惑・試練に対する大切な教訓があります。
イエス様に命がけで付いていきますと豪語していたペテロにとって、
イエス様を3度も否認してしまったということは、どれほどの後悔であったことでしょう。
悔し涙を流したことでしょう。
そして、自分はもうイエス様の弟子として歩む資格は無い。
また、自分はもうイエス様に許していただけないのでは無いか。と自分に失望し、
イエス様のことを信じようとする心を持つことさえにさえ、
自信を持つことのできない辛い心の状態であったことでしょう。
あなたの信仰が無くならないように。
ペテロの側からは、何の正しさ、自分には~という資格がありますから、~の行いをしてきましたから、と自分には、受ける資格があると全く言えなくなってしまいました。
しかし、父なる神様からの憐れみは尽きることが無かった。
主を仰ぎ見さえすれば、主の憐れみは再びペテロに注がれる。
ペテロは学びました。
ひとつは、誘惑によって自分の弱さを知り、試練によって自分の無力さを知り、まったく神の恵みにゆだねるしかなくなってしまうことを学んだこと。
ひとつは、この経験によって、ペテロの信仰に深みが増し加えられたこと。この深みは他の兄弟姉妹の誘惑・試練に対する思いやりの心を広げたこと。
【弟子としての深みを持つ。】
もし、イエス様がサタンの介入を直接止めるように父なる神様に願い求め、それが聞き届けられていたなら?
ペテロは自分に試練が用意されていたことは知る由もなく、3度否認することもなく、自分は大丈夫という浅い信仰のままの弟子であったことでしょう。
そして、他の兄弟姉妹たちが試練にあい、自分の犯した罪に苦しみ、イエス様の救いを信じられなくなり、弟子として歩む自信を全く失っている時にも、彼らを見下げることしかできなかったことでしょう。
他の兄弟姉妹たちを力づけることはできなかったことでしょう。
愛する兄弟姉妹、私たちがどんな試練にあい、気落ちしたとしても、どんな大きな誘惑に会い、失敗して罪の世界に再びはまり込んだりしてしまったとしても、イエス様は私たちの信仰が無くならないようにと父なる神様に願い求めて下さっています。ですから、今は、自分の熱心さだとか、自分の行いだとか、自分の正直さ、清さ、誠実さだとか自分に頼らず、ただ主の憐れみ・恵みだけによりすがってもう一度イエス様に目を向けてください。ただで受けてください。そこからもう一度始まりますから。