主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

罪を悔い改める

 
 
私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。         Ⅱコリント人への手紙8:19
 
罪を悔い改めるということは、
なにか、自分が肉の行いをしてそのことを反省して、
主に正直に告白して、イエス様の血によって綺麗に肉の行いの汚れ、
特に心が汚れてしまったところを綺麗にしてもらうという意味もあると思うけど、

それよりも、クリスチャンでありながら、神様にお願いばかりして、
自分に良くしてもらうこと、自分が祝福されること、自分の願いがかなうことばかり考えている自己中心的な信仰が、いかに自分勝手なことであったかに気がついて、
つまり、神様の御心をなすにはどうしたらよいかと、神様の御心を尋ね求めるという心の姿勢を持つことを第一としていなかった自分に気がついて、このことが、クリスチャンとしていかに神様を悲しませていたかということに気がついて、
それが、いかに愚かなことであったかに気がついて、

もう一度、神様の御心にそって歩むという風に、全く生きる向きを方向転換することが罪を悔い改めるということではないでしょうか。

自分中心な信仰生活は、つまり、自分の心の中心に、自分を置いている信仰生活は、いまだに罪を悔い改めていないクリスチャンと言えるのではないでしょうか。

自分の心の中心から、自分を降ろして、イエス様に中心の座に座って、自分自身を支配して頂くことがなによりも大切で、

人は、愚かにも、ほうっておくと、自己中心になってしまうので........、

公共の礼拝の場において、自分中心になってしまっていた心を、もう一度主中心におき直すという作業も、罪を悔い改めるということだけど、
もうひとつ大切なことは、
主日の礼拝日においては、
そのほかの日は、主を愛しているとしても、
この世のさまざまな仕事にほとんどの時間を費やさざると得なかったわけなので、
主日の礼拝日は、世に従事していた仕事を離れ、想いを主に向け、主ご自身と交わるのことを中心としながら、
主の働き、教会の働きのために、自分自身の能力を精いっぱい捧げる日として、主の仕事をする積極的な日でもある必要があるのではないでしょうか。
 
もし、兄弟姉妹のために、自分が時間や財や能力を払うこと、犠牲を払うこと、兄弟姉妹のために、自分が損をすることにおっくうになっているのなら、それは自分中心の信仰姿勢となっていることの表れなのではないでしょうか。

いつのまにか、自己中心的になっている自分です。