主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。使徒12章5節

教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。使徒125
 
中心聖句『わたしの家は、すべて民の祈りの家と呼ばれる』マルコ11章17節
 祈る教会
今日は、祈る教会というテーマで御言葉の恵みを分かち合っていきたいと思います。
一つ目は、教会は迫害の中でどう祈っていたのかということ、
二つ目は、教会は誰のために祈っていたのかということ
三つ目は、教会は祈りのネットワークであるということをお話していきたいと思います。
  
【教会の始まり】
ペンテコステの日に聖霊が下り、教会が始まりました。聖霊の力を受け、復活の証人となった弟子たちは、エルサレムの街で力強くイエス様の復活を宣教しました。使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行われ、彼らは、いつも心を一つにして宮に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって、食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれていました。
そうして、主も救われる人々を毎日、毎日加えて下さっていました。
教会が大きくなるにつれて、大祭司や律法学者たちは、使徒たちにねたみを持ち、彼らを殺そうと図るようになりました、教会が成長するにつれて、大祭司たちは、怒り狂い、使徒たちを殺そうと図るようになってきました。使徒たちは、聖霊に励まされて、力づよく、イエス様こそ、旧約聖書の預言していた救い主であることを力ずよく説教していました。そうして、ステパノが最初の殉教者となり、石で打ち殺されました。
ステパノが殺されたその日に、エルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされて行きました。しかし、散らされた人々は、散らされた先々で御言葉を宣べ伝えていったために、神の言葉はますます地域全体に広まり、やがて異邦人の中にも主を信じる人々が起こされ、各地に教会ができてきたのです。アンテオケには、初めて異邦人の教会ができました。
ユダヤ人を中心する教会の指導者として、ペテロやヤコブヨハネなどのイエス様の12弟子がいました。アンテオケ教会などの異邦人教会には、大伝道者パウロが起こされていたのです。
 
 
本文
1節:そのころ、
とは、11章にあるようにアンテオケで多くの異邦人信じて主に立ち返り、アンテオケ教会がキリスト者と呼ばれるようになった頃、エルサレムでは大飢饉があり、エルサレム教会を支援しようと、バルナバとサウロを使者として、エルサレム教会に救援物資を送ったその時の出来ごとであった。
ステパノの殺害と同時に教会に対する激しい組織的な迫害が起こり始めました。
ヘロデ王が教会に手を伸ばし始めたということは、ローマ帝国の権威を帯びた国家としての迫害が始まったと言えます。
ユダヤ人は、世の王であるヘロデ王が自分たちの肩をもってキリスト教徒を迫害することを喜んだのでした。
 
4節:ペテロは牢に入れられました。種なしパンの祝いの間は、律法によって、死刑を執行してはならなかったために、祭りが終わるのを待ってから、人々への見せしめのために、ペテロを引き出して処刑するつもりでした。
ヘロデ王の知恵が実は、ペテロが剣ですぐに殺されるのを未然に防いだわけであり、ここにすでに人の知恵を超えた神の知恵が働いていたのかもしれない。
 
5節こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。
どれだけ考えても、ペテロを救いだすことは人間的には全く不可能な状態であった。いかに、教会が危機に瀕していたのかをルカは、この言葉をもって伝えようとしている。
この時は、教会はどうしたのであろうか?
ここが、今日の説教の中心的な御言葉である。
教会は、人間的には脱出が不可能な状態において、何をしたのであろうか。
彼らは、ヘロデ王に懇願に行ったのではなかった。彼らは、絶望的な状況の中で、悲嘆に暮れていたのでもなかった。彼らは、救いだすための方策を練っていたのでもなかった。
彼らの心はすぐに一つとなり、神に向かって祈りを捧げ始めたと記している。
 
①教会は祈りの共同体でなければならない。
ルカは、ここに『教会は』と記している。教会は、祈る。教会というイエス様を頭とし、イエス様の体である教会が、一つの人のようになって、一つの意思を持って、祈り始めたということを現している。
教会の誰かが祈るのではなく、信者の群れ全体が同じ心をもって祈り始めたのである。
また、この『教会は』という御言葉は、地域教会を越えたあちらこちらにあるすべての兄弟姉妹の群れが皆祈っていたということを現している。当時、ユダヤ教の会堂はあり、安息日に説教は出来たが、キリスト者たちは、指導的な立場の信者の家に集まり、共にパンを裂き、讃美と祈りを捧げるのであった。つまり、エルサレムの中にあちらこちらに家々の教会があり、それらをすべて合わせてエルサレム教会を言っていた。
これらの教会全体が祈りに集中していたのである。
 
個人の祈りではない。教会の祈りなのである。教会に突き付けられた試練に対して、皆が共通の心をもって、神に祈りをささげたのである。
 
②教会の祈りは、漠然としてではなく、目標を持って、焦点を絞って祈らなければならない。全体祈祷は、個々人が自分の願い事を自分勝手に祈るのではなく、彼のためにと祈りの課題を掲げて祈るものである。
 
③教会の祈りは、神にのみ捧げられなければならない。教会が神に祈るのは当然であると言えるかもしれない。しかし、そうだろうか、教会内の様々な課題や問題が、信徒の知恵によって解決されようとしてることは多くないのであろうか。こんな課題は、神に解決できるはずがない。神に祈るのは申し訳ない。などと祈るべき時に、神に頼るべき時に、神に心を向けることを忘れてしまうことはないだろうか。いいえ、ペテロの投獄もあまりにも教会にとっては、衝撃的で、現実だけを見ていたなら、彼らの心は萎えてしまったに違いない。
『わたしは山に向かって目をあげる。私の助けはどこからくるのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。』詩編121編1,2
 
詩編118編6節から14節『苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。~すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。』
 
④教会の祈りは、熱心な祈りであった。教会全体が熱くなっていました。祈りの情熱がそこに感じられます。冷めた祈りではない。涙を流し、声をあげ、体を震わせ、食べることを忘れ、全身全霊をもって祈っている姿が見えてきます。祈り始めると、聖霊が祈りを助けてくれます。祈れば祈るほど、聖霊が注がれ、祈りへと導かれていきます。聖霊が注がれるから、熱くなり、熱くなるからまた祈りに燃え、そしてまた祈るのです。祈りの炎は伝播します。小さな薪も集まることによって、大きな炎になるのです。
 
⑤教会の祈りは、忍耐強く継続する祈りであったということです。私たちは、経験します。人間的に不可能、常識的に不可能であることについて、忍耐強く祈り続けることがどれほど困難なことであるかを知っています。
教会の祈りは、共同体の祈りです。個人的に祈ることに疲れてしまった、あきらめそうになってしまったとしても、教会全体が祈っていることにより、慰められ、励まされ、支えられ、そうして、また祈る力を頂けるのです。
個人のビジョンであれば、個人が失望してしまえば、もう祈れません。しかし、個人のビジョンではなく、教会全体のビジョンであれば、教会という有機体は祈り続けることができるのです。
Ⅱ 教会は誰のために祈るのかということをもう一度ご一緒に学んでみましょう。
 
ヘロデ王とは、世の権力者を現しています。これは、まさにサタンの勢力です。
教会がいのちを持ち始めた時、サタンは世の権力を用いて、教会を、神の国を迫害しようと始めたのです。
エペソ人6章12節『私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです』
 
サタンは、教会から人々を引き離し、孤独にすることを狙っています。教会内に分裂がおこり、一致が妨げられ、教会全体が祈ることを止めてしまえば、サタンは教会に力がなくなることを知っているからです。
 
①サタンは、まず、教会の指導者たちをターゲットにしたということです。
教会の指導者たちを孤立させて、兄弟姉妹たちとの関係を断ち切ってしまうことを狙ったのです。
ですから、私たちは教会の指導者たちのために祈らなければならないということを教えられます。
ペテロが捕まってから、教会は祈れなくなったでしょうか・いいえ、ますます教会は祈り始めたのです。
パウロは、大伝道者でした。彼は多くの豊かな賜物を授けられていました。パウロは優秀であったから、祈られなくても平気だったでしょうか?いいえ、パウロは、自分のためにも祈って下さいと兄弟姉妹に懇願しました。
指導者であっても、他の兄弟姉妹の祈りを必要とするのです。
ローマ書15章30節『兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈って下さい。』
 
②教会は聖徒たちのやめに祈らなければならないということです。
エペソ6章18節『すべての聖徒たちのために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい』
教会はお互いのために祈り合うために存在しているのです。悩んでいる兄弟姉妹、希望を失ってしまった兄弟姉妹、絶望している兄弟姉妹、未だに罪の縄目にからまれてもがいている兄弟姉妹のために、お互いにとりなし合っていく必要が教会にはあるのです。
また、私たちは主にあって互いに成長するためにも祈り合わなければなりません。
イザヤ61章1から3節
 
③今日は、この3番目の祈りが一番訴えたいことです。それは、牢につながれている人々のために教会は祈るということです。
牢につながれている人々とは誰でしょうか・すなわち、その魂がサタンの縄目に捕らわれてしまっている人々のことです。イエス様は何のために来て下さったのでしょうか?
ヘブル2章14,15『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』
 
教会は、サタンに捕らわれている魂の解放のために熱心に祈る教会でなければならないのです。罪にかんじがらめになっている魂を救うためには、教会の熱心な祈りしかありません。
 
魂の救いに対する情熱が冷めている教会は死んだ教会です。生きている教会とは、まだ救われていない家族、友人、知人の魂がサタンから救われるように熱心に祈り続ける教会なのです。
 
6節から10節
牢につながれ死を待つしかなかったペテロはどのように牢から解放されたのでしょうか?すなわち、どのようにしてサタンの縄目から解き放たれたのでしょうか?教会の祈りは、どのように神様の救いの御手を動かしたのでしょうか?
        ペテロは寝ていました。人々の魂は、サタンの牢獄で眠っている状態であります。
        そこに、一筋の光が差し込んできました。暗闇の中に差し込む光があったのです。主は光です。どんな   暗闇をも照らすことのできる真の光なのです。暗闇は、この光に勝つことはできません。
        彼は目が覚め、立ち上がりました。そうして、彼を縛っていた鎖が外れたのです。主の霊は、私たちを縛り付けている罪の縄目を解き放って下さいます。
        第一の衛所、第二の衛所、そうして町に通じる鉄の門が開き、ペテロは、町の外にでることができました。
ペテロが解放されるのに、一つ一つの工程があったことに気がつきます。一つ一つの障壁が一つクリアされて、また次の障壁がクリアされて、そうして全ての工程を経て、ペテロは門の外へ出ることが出来たのです。その間、教会は祈り続けていたのです。私は、未信者に対する祈りもこのようなものではないかと示唆されます。本人は、どのように神に導かれ、救いの門が次第に開いているのかを知らない。しかし、教会の祈りによって、一歩一歩救いへと導かれている。そうして、教会の祈りが積まれて、ある日、『今、確かに分かった!』と救われたことを知り、今までの歩みの一歩一歩を神様が導いて下さっていたのだと悟るのではないでしょうか。
教会が、途中で祈ることを中断したらどうでしょうか?途中まで救いに導かれていた魂が途中で立ち止まってしまうということはないのでしょうか?
私も今も、個人的に救いのために祈っている職場の人がいます。その人は祈られていることを想像もしないでしょう。けれども、私は祈ることを通して、その方の日々の一歩一歩の歩みが、神によって救いの門が開かれる歩みであることを信じています。
 
チャールズウェスレーの賛美歌に、And Can It Beというのがあります。
その讃美の歌詞に、こうあります。
l  私は目覚めた
l  牢獄は光に照らされた
l  私の心は自由になった
l  私は立ち上がり、歩きだし、
l  そして、あなたに従った。
l
  Long my imprisoned spirit lay,
fast bound in sin and nature's night;
thine eye diffused a quickening ray;
I woke, the dungeon flamed with light;
my chains fell off, my heart was free,
I rose, went forth, and followed thee.
My chains fell off, my heart was free,
I rose, went forth, and followed thee.
 
私の魂は、長い間、肉体の闇と罪に縛り付けられて、閉じ込められていました。
あなたの目から光が発せられると、
私は目覚め、
私を閉じ込めていた地下牢は明るく照らし出されました。
私の鎖は外され、
私の心は自由とされました。
私の鎖は外され、私の心は解放されました。
私は立ち上がり、歩きだし、あなたに着いて行きました。 
 
11節:『今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救いだして下さったのだ』使徒12章11節
  
Ⅲ 教会は祈りのネットワークである。祈りの輪の中にお互いにとどまっていましょう。
 
12節、17節:ペテロは解放されると、すぐにマルコとよばれているヨハネの母の家にいきました。ペテロはどこで祈られているかをよく知っていたということです。どこに行けば、ペテロのことを案じてくれている兄弟姉妹がいるかをよく知っていたということです。
ペテロは、救われた次第を彼らに手短に説明すると、次の所へと足早に行ってしまいました。
    証を聴くということで、教会は讃美に満たされました。神様の応答を実感することが出来、教会の信仰は強められました。
    ペテロはヘロデに捕らわれても、教会全体が祈っていてくれることを確信していました。祈ってくれているだろうかなどと心配する必要は全くなかったと言えるでしょう。ペテロは牢の中でぐっすり眠っていましたが、それは、主に完全に信頼して委ねた姿でありました。すなわち、生きるも死ぬも必ず、主の御心が成し遂げられることを信じていたのです。
    これは、ペトロ個人の祈りだけでなく、教会全体が祈っていたことへの信頼によりました。
 
私たちも、祈りの輪の中にとどまっているべきです。これは、地域の教会に属しているということです。
地域の教会に属していることによって、キリストの体の中にとどまることができるのです。
また、教会によっては、小さな家庭集会の集まりがあります。家庭集会ごとに祈りが捧げられています。
そのような顔と顔とを見合わせることのできる祈りのグループに属していることも大切です。
祈ってほしい時に、気軽に、牧師に、また兄弟姉妹たちに連絡をとれるようなネットワークを形成していくことが大切です。
これは、毎日の祈祷会に熱心に通わなければならないとか、礼拝を休んではならないとかいうことではなく、
キリストの体にとどまっている必要があるということです。地域教会の祈りの傘の下で、私たちはさらに守られていくのです。 
結び:
教会は礼拝共同体であり、宣教の共同体であり、御言葉の共同体です。そして、教会は祈りの共同体です。
エス様はおっしゃいました。『わたしの家は、すべて民の祈りの家と呼ばれる』マルコ11章17節