7章から、イエス様と律法学者、パリサイ人たちとの論争が始まります。
イエス様は、神様が人の姿をとられた方ですから、神様の御心をあますところなくご存じです。
律法の中に与えられている神様の御心とは、愛と憐れみです。神様の本性は愛と憐れみに根ざしているということでした。
ところが、当時の学者たちは、神様の御心とは外れたところで、律法を解釈し、人々の心は、律法の解釈で窮屈になり、人への愛もなおざりにされるようになりました。
私たちの宗教心という肉の働きは、たくみに様々な規則を作り上げ、人を縛りあげます。それは、今の時代も同じです。なにかをしなければならない、なにかをしてはいけないという規則を守っていると、肉の心は安心し、自分が神様の御心にそって歩んでいるかのような錯覚に陥ってしまいやすいのです。
主日礼拝厳守といって自分は教会に行っても、、家で、もし、、子どもが高熱を出して寝ているのを放っておいて、苦しい思いをしているとしたら、それでよいのでしょうか?牧師だからといって、主日礼拝を休んではいけないのでしょうか。それほどまでに、日を守らなければ、神様は愛してくださらないのでしょうか?そんなことは無いでしょう。子どものそばに寄り添っていてあげることの中にも、神様の愛があります。
してはならないことを忠実に守ろうとするよりも、人にしてほしいことを多くすることのほうが、主の御心にかなうのではないでしょうか。