主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

この方にいのちがあった。ヨハネ1章4節

2015年、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 
神は、命の源であり、命を供給される方である。そして、この命はナザレ人イエス・キリストの内にある。だれでも、この真理を信じてイエス・キリストを信じる者は神の命を自分の所有とすることができる。
 
ヨハネ福音書の記者のヨハネは、イエス様をユダヤ人の救い主として、紹介する前に、イエス様は人の(すべての人の)命であると紹介した。
 
私のイエス様への出会いの始まりは、罪の赦しを求めることよりも先に、霊の命の枯渇を誰が、どのようにして満たしてくれるかということからであった。
私の魂は、イエス・キリストのうちに決して渇くことのない命があることを知り、イエス・キリストにつながることにより、私の魂は、命の生きた流れに出会った時、私の魂は歓喜し、私の霊は蘇った。この魂の喜びは今も忘れることはない。
それゆえ私この方、すなわち、人となられた神、つまり2000年ほど前にユダヤベツレヘムに生まれ、ポンテオピラトの下で、十字架で処刑され、よみがえられたと聖書に記されているナザレ人イエスに永遠の命があることを告白すると共に大胆に宣言する。
この方を通して、永遠の命につながって以来、23歳ごろの出来事、この命は途絶えたことがない。心の表面は、人生の浮き沈みの中で、命であるイエス・キリストを見失いそうになることはあるが、魂の渇きをいやし、命を見出すために、行くべきところを迷うことはもはやない。
イエス・キリスト以外のところに命を探す必要は全く無くなった。
 
私は、命がどこにあるのかを長い間探し求めてきた求道者であった。この命がイエス・キリストのうちにあることを知って以来の求道者としての目的は達成した。
今は、この方に命があることを証しする証し人である。
私はこの命の道を人々に証ししたくて宣教の道に入った。
 
宣教とは何か。それは、御言葉を伝えることである。
神は、宣教という愚かさを通して、信じる者を救おうと定めて下さった。
そして、宣教の愚かさとは、十字架のことばである。
そして、聖書の一字一句を通して、神はご自身を、イエスキリストを人々の心に啓示される。
それゆえ、この方に命があることを証しするために、聖書のことばを伝える、語るのである。