主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主よ、あなたはどなたですか。使徒22章8節

わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを。イザヤ45章3節

わたしが主である。ほかにいない。わたしのほかに神はいない。5節

イスラエルの神、救い主よ。15節

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。22節

わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。21節

 

神様は、イスラエルの指導者であるモーセ十戒という十の戒めを与えられました。

その第一の戒めは、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』という戒めでした。この第一の戒めは、一番根底に土台として私たちに求められていることです。信仰生活の一番の基本であり、初めであり、はずれてはならないことではないかと思います。

 

では、わたしのほかに神はいないと言われた神様ご自身はどんな神様でしょうかと人は問いたくなります。

モーセは、出エジプト記3章13節から15節で、『わたしのほかに神はいない』と仰せられるあなたの名は何ですか?と問いました。

神様は、ご自身の呼び名を『主』と呼ばせ、ほかの神々と区別されました。

神様ご自身が、歴史の中でイスラエルの民をエジプトから救い出したイスラエル人に現した主こそまことの神であることを教えようとされました。

異国人が神として崇めているのは神ではなく、あなたたちを救う力はないことを預言者を通して教えようとされました。

 

では、イスラエルの神、主とはどのような方なのでしょうか。

パウロは、自分自身が主に出会った体験を証しています。使徒22章8節から

『主よ。あなたはどなたですか』パウロは、いままで自分はイスラエルの神、主を信じ、主に仕えていると信じていました。しかし、パウロはその主が誰であるかを知らないでいたことがあきらかにされています。

パウロは、信じていると信じていたイスラエルの神はパウロ自身が作り上げた偶像であったということです。もちろん、主はパウロを知っていました。彼が誤っていることを。

パウロが『主よ、あなたはどなたですか』とへりくだって主の名を呼び求めた時、主はご自身が『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』とお答えになりました。

そこではじめてパウロは、主の名は『ナザレのイエス』であることを悟りました。

イスラエルの神、主を信じるとは、ナザレのイエスが主であることを信じることです。

 

神を信じているとはどのようなことでしょうか。

それは、神との人格的な交わりが有るということです。

神を信じるとは、神との生きた交わりがあることです。

しかし、人は罪があるため、直接に神と交わることはできません。

つまり、人は神を直接信じることができない存在です。

 

日本には、『鰯の頭も信心から』ということわざがあります。”イワシの頭のようなつまらないものでも、信仰すれば非常に尊いものに見えることから、信仰心の不思議さをたとえたことわざ。”だそうです。信じる心があれば、信じる対象はなんでもいいということではないでしょうか。

信じているという人の心(信心)が重要であって、神を信じているという心があれば、神がどのような方であるか知らなくてもかまわないということにもなるのです。

 

世界中には様々な宗教があります。一神教も多くあります。

一つの神を信じていれば、それはどれも同じ神を信じているのではありません。

パウロユダヤ教徒としてイスラエルの神を信じていました。

少なくとも自分は信じていると確信していました。

しかし、彼が信じていたのは、真の神ではなく、偶像でした。

 

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。

エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。Ⅰヨハネ4章2節、3節。

イスラム教の神、神道の神もいます。神を信じていると言えば、イエス様を信じているかと言えば、そうではありません。もっとも大切なことは、神を信じているかではなく、ナザレのイエスを信じているかです。この方を信じていることがまことの神を信じていることであると聖書は告げています。宣教とは、このナザレのイエスだけがまことの神であることを告げることです。

パウロは、ナザレのイエスを信じてはじめてイスラエルの神がどのような方であるかを知りました。

2019.10.20 茅ヶ崎集会