主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、 自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 マタイ16:24



あなたがクリスチャンであるといい、教会の働きにつきたいというなら、自分の意地を捨て、家族と社会に対する責任をまず果たせるようにしてから、わたしの仕事につきなさい。

離婚と再婚について、姉妹の質問へ

姉妹からの質問は、あらためて、お答えすることの難しさを正直感じています。
また、新婦のお父さんからの質問は、再婚者と結婚させてもいいだろうかという新婦に対する父親の愛からくる不安な気持ちも含まれているように感じられるため、
お答えした返事で、誤解を招かないかも心配しています。
 
キリスト教挙式は、以前にも私のスタンスをお話ししたことがあるかもしれませんが、
未信者の方であっても、福音の宣教のためと、結婚式当日においても、イエス様の名を知ってほしいとの願いから、喜んで挙式を承っています。
これは、教会内でのクリスチャン同士の結婚式とは、意味合いが違う面もあります。
このスタンスに沿って、赤ちゃんがすでにいる方でも、すでに入籍している方でも、そして再婚者であっても同じです。
 
エス様は再婚を許しておられるのですか・聖書にあるのでしょうかという質問ですが、
①まず、神様は、離婚をしてはいけないと言っています。この原則は変わりません。
離婚の危機にあっても、主に祈り求めるなら、やがて進むべき道が示されます。家庭内で夫婦が憎しみ、裁き合う苦しみ、近くにいながら一番遠いという地獄を味わうような結婚関係も存在します。しかし、主は、忍耐とまた逃れる道を与えて下さいます。ですから、今の世の風潮に流されて、安易に離婚してはいけません。
相手と子供達のためを思ってやむなく離婚を選択する人もいます。
離婚をしてはいけないと知りつつ、努力の甲斐なく、離婚せざる終えなかった人に対して、神様は、どう応えるのでしょうか。
神様は、人が神の戒めを守り切れない罪人であることをよくよく知っておられます。それゆえ、罪の赦し主であるイエス様をこの世に送って下さいました。(クリスマスですね)
離婚してはいけないという神様の戒めを守れなかった自分の罪を素直に認めて、イエス様に罪の赦しを乞う者を、神様はイエス様に免じて、必ず赦して下さいます。
人は、赦された時、心の呵責から解放されます。
免じてというのは、イエス様がすべての人の罪の身代わりとなって、十字架の上で神の裁きを受けて下さったからです。
③罪が許された人は、もう一度新しく生きるチャンスが与えられているということでもあります。クリスチャンだから、失敗しないということではありません。
つまり、クリスチャンは、皆、イエス様に罪を赦されて、新しく生き直している人たちとも言えます。(聖書の例で、言えば、イエスを否認したペテロも、
クリスチャンを迫害していたパウロも、大変な罪を犯しましたが、罪を悔い改めることで、赦され、再びクリスチャンとして生き直すことができました)
ここに、再婚への許しの道が、開かれていると私は受け止めています。
 
再婚については、ケースバイケースであると考えたほうが良いと受け止めています。
離婚した人について、そのままでいられるなら、結婚しない方がいいとも書かれています。
④イエス様が、再婚について禁じていることがあります。それは、自分の欲望のために離婚し、欲望のために再婚をすることです。それは、姦淫を繰り返すことになります。
⑤一人一人、主に祈りながら、結婚、離婚、再婚について慎重に主の声を聞き分けていくことが必要です。
しかし、主は、主ご自身により頼む者を守られる方です。自分のしようとすることを主に委ねるとき、主はその人の道を良きに導いて下さる方です。
⑥以上のことは、聖書全体を通しての私の見解です。
聖書の結婚観は、主に信者に対して向けられており、未信者の方にとっての結婚観はばらばらですので、結婚、離婚、再婚に対しての善し悪しについては、答えるのが難しいところがあります。
⑦一般的なことでは、誰でも、離婚によって、心が傷つきます。その傷が癒えるまでの時間が必要です。
また、自分がなぜ離婚してしまったのか、なぜ、再婚したいのか、その理由を自己吟味する時間を持つことは、非常に大切なことです。
ですから、単に、心の傷を癒やすためにすぐに再婚することは避けた方がいいと思います。
 
幸せな人生が開かれますよう、お祈りします。
 
子よ、あなたの罪はゆるされた。マルコ2章9節
娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」ルカによる福音書8章48節
 

しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって歩きなさい。使徒3章6節

エスキリストの名によって歩くとはどういうことか.
313:男は生まれつき足が萎えていた。赤子の時は親に抱かれたが、親がいなくなってからは養ってくれる者はなく、周囲の憐れみによって、人の出入りの多い、神殿の門に置いてもらっていた。そこで、施しを求め、施しによって生きていた。これは、当時の社会情勢においては、認められていた社会福祉の方法であった。憐れみ、施しによって弱者が生きることができるように。当然、その場には彼だけでなく、ほかにも同じような立場の者が大勢いたであろう。
この記事は、イエス様がヨハネ519で行った奇跡に似ている。
〈ペテロたちに与えられた弟子達の権威〉
l  この物語の中心は、単に癒やしの物語ではない。ペンテコステ以降、弟子達は
聖霊の力を与えられ、使徒としての自覚に目覚めて、イエスの弟子としてイエスの代行者としての歩みが始まったことを表わす、象徴的な事件として描かれている。
エス様が生きておられる時、弟子達に宣教に伴う権威が与えられていた。
マタイ101 ガリラヤでは、彼らはイエス様に後ろから支えられながら、村々を巡り、福音を伝えていたが、エルサレムでの十字架処刑を前にして、彼らの心は凍り付き、弟子として、歩み出す勇気をすっかり失っていた。しかし、主は復活されて、おびえていた弟子達の前に閉ざされていた扉を通り抜けて、彼らの前に現れて、平安を宣言し、彼らのおびえていた心を解放し、もう再び弟子として世に遣わすことを命じ、そして宣教の力、保障として聖霊を受けるように語られた。
l  この物語は、再び弟子達として歩み出したペテロ達の変化を教えている。目の前にイエス様はもういない。しかし、聖霊に満たされたペテロとヨハネたちはもう臆病者ではない。主の弟子であることを自覚し、迫害も覚悟の上で新しく歩み出した弟子の姿である。
l  ルカは、聖霊バプテスマを受けることが弟子として新しく歩む上でどれだけ大切であるか、聖霊の満たしが彼らをどれだけ変えることができたのかを後世に伝えている。
l  6節:このペテロの男に対するすすめは、ペテロ自身の立場であり、覚悟であった。
l  金銀はわたしにはない。この世の名誉も地位も財産もない。この世にもはや頼るべきものは何ももっていない。私は今、何に頼って生きているのか、何が私の宝であり、行動の根拠であるのか。
l  わたしにあるものをあげよう。 直接あなたが求めている生活の糧、すなわち、金銀は持っていない。渡せない。私たちにそのことを求めるな。私たちにあるもっと必要なそして、あなたに欠けているものをあなたにあげよう。
l  ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい。  目に見える者だけにこれまで頼ってきた男にたいして、毎日の糧を得て、生活をつなぐことで精一杯であった、人生の長い目標など考える余裕もないこの男にたいして、ペテロは『ナザレ人イエス。キリストの名によって歩め』と命じた。ペテロは聖霊を受けてから、揺るぎない岩のような信仰者へと変えられていた。この姿が、イエス様がガリラヤ湖で漁師をしていたペテロの中に見出していた弟子としての姿であった。
l  ペテロは金銀を与えないだけでなく、手を置いて足なえをいやしたわけでもなく、また、主の御名によって悪霊を追い出した訳でもない。本人に向かって『ナザレ人イエスキリストの名によって歩きなさい』と命じられた。
l  ペテロにとって、イエス様が待ち望んでいた救い主であることは確信であり、すべてのユダヤ人にとって今必要なことは、この方の名を呼んで、この曲がった時代から救われることでした。そこで、この男に対しても、同じように勧めました。
l  7節:男は、その言葉に感動し、ペテロが伸ばしてくれた右手を握り、彼は立ち上がる決心をした。初めて聞くイエスの名を信じようと彼が決心したのは、ペテロの短い説教であった。しかし、ペテロはここでこの人を立たせるための大切なキーワードを語っている。それは、『歩きなさい』です。彼の本当の望み、夢は、ほかの人と同じように、一度でいいから歩いてみたいということであった。しかし、それは、彼にとって、夢のまた夢であった。しかし、ペテロは、彼をじっと見つめて、歩くようにと声をかけたのでした。
l  これは、イエス様が足なえを直して歩かせた場面とペテロが重複して見えてきます。
l  7節 私は、ペテロが彼の右手を取り、引き寄せた時、彼も力一杯、ペテロの手を引き寄せたと思う。彼も力を入れなければ勢いよく立ち上がることが出来ない。彼の中にある信仰が、イエス様の力を導きだした。
l  彼は、立ち上がることによって、足とくるぶしが強くなった。寝ていたままでは、やはりそのままであった。足とくるぶしが強くなってから、立ち上がろうではなく、イエスの御名を信じて、まず、立ち上がることにより、足もくるぶしも強くなっていった。
l  そして、歩き出すうちに、ますます、強さが増し、踊りはねるほどになっていった。
l  エスの名に信頼して一歩を踏み出す、そして、さらに信頼して次の一歩を踏み出すとさらに強くなって、次の動作ができるようなる。とうとう、彼は神を讃美し、ペテロたちと一緒にイエス様を証する者へと変わっていった。ハレルヤ!

2019.1.13 茅ヶ崎集会

メリー・クリスマス

神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。                                                      ヨハネ3章16節

クリスマスおめでとうございます。今年も無事に、皆様とクリスマスを迎えられましたことを感謝します。日頃、お付き合いのある皆様、ありがとうございます。

 
私たちを造られた神様は、私たちのことをいつも愛しています。それは、クリスチャンであろうと一度も教会に行ったこともない人も同様に愛しています。
しかし、多くの人は、神に造られたことも知らず、まして愛していると言われてもますますわかりません。
 
人はどうして、神に愛されていることに気がつかないのでしょうか?
それは、人に神様からの愛を妨げる罪が心の中にあるからです。
罪は、素直に愛されることを拒みます。
 
しかし、神様は、人の罪を取り除くために、救い主をこの世に送って下さいました。救い主の名をイエスと言います。
 
エス様は、生涯の最後に人の罪の身代わりとして十字架にかかり自分の命を捨てて下さいました。そして、イエス様を信じる人の罪をとりのぞく、罪を赦すという約束をして下さいました。
 
今、イエス様を信じる人は、心の中の罪が取り除かれます。
そして、もうひとたび、神に愛されていることを知る心と神を愛する心を与えて下さいます。
 
人の本当の幸せは、神に愛されていることを知ること。そして、神と人を愛して生きていく中にあります。
 



神様は、あなたの心の中の罪を取り除く救い主がすでにこの世に与えられていることを知らせるために、全世界の教会でクリスマスを祝うようにされているのです。
 
エス様を信じるにはどうすればいいのでしょうか。
それは、簡単です。自分の口で声を出して、『イエス様、私の罪を取り除いて下さい。私の救い主となって下さい』とイエス様自身に呼びかければいいのです。口で祈ることがイエス様を信じることです。どうか、今宵、静まる時間をもって、イエス様を救い主と口で告白し、イエス様を信じる者となっていただきたく願います。
 
エス様を信じ、罪が赦された者は、神に愛されていることを知るようになります。

聖書とは。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。             Ⅱテモテ3章16節

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。                  ヨハネによる福音書20章31節

私は、この書の預言の言葉を聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神は、この書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも、取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。                                             ヨハネによる黙示録22章18,19節

神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司として、 ヘブル2章17節

憐れみ深い、忠実な大祭司。ヘブル2;17

神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。第一テモテ2章5節

祭司の務めは、民の代表としていけにえをささげ、とりなしをすること。民の代表として、礼拝者として神を礼拝すること。民の代表として、神の言葉を聴き、民に証すること。そして、神の祝福を分かち合うこと。

罪の肉体を持った私たちは、他人を憐れむ心を働かせたとしても、それは、限りがあり、またどこかで必ず自己中心、自己保身の心が含まれている。

正直なところ、他の人の心の痛みに寄り添い切ることは無いし、またそのたびごとに見も知らぬ人の心の痛みに寄り添っていたならば、疲れ果ててしまう。しかし、イエス様はそうではなかった。

エス様は罪のない人としてこの地を歩まれたが、私たちが近づき難いような人としてではなかった。イエス様が肉体を持たれたのは、我々と共に傷つき、痛み、失意や恐れや混乱や迷い、苦しみを分かち合い、弱い者と共に弱くなり、無力な者と共に無力になり、私たちと同じようになられるためであった。イエス様は、私たちの弱さを完全に共有しながら、神の御前にとりなして下さった。それゆえ、私たちはイエス様を通して安心して神の御前に近づくことができる。ここにも、和解の生け贄となって下さった主の姿がある。降誕節にイエス様の憐れみ深いお姿を覚えたい。

祈り 本来、人に備わっていた憐れみの心を私たちの内にも与えて下さい。

2018.12.9 茅ヶ崎集会 メッセージ要旨

両親は幼子を主に捧げるために、エルサレムに連れて行った。ルカ2章22節

さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主に捧げるために、エルサレムに連れて行った。ルカ2章22節

幼子に対する両親の務め。ルカ222 
22節には、1 モーセの律法による
2 エルサレムに連れて行った
3 主に捧げるために
と幼子を連れたヨセフとマリヤの行動について、3つのことを記しています。
前回、幼子を主の御許に連れて行くことの大切さについてお話をいたしました。
今日は、主に捧げることとモーセの律法に従って、つまり聖書に従って子供を養育することの大切さについて教えられました恵みを分かち合いたいと思います。

マリヤとヨセフは、モーセの律法に従い幼子イエスをまず主に捧げました。私たちも親の安心と喜びのためだけに主の御前に幼子を連れていくのではなく、まず幼子の全生涯を主に捧げ、神の人として育てていく決意をすることが大切かと思います。
子は親の所有ではなく、主のものであることをはっきりさせた後、再び主より授かり、大切に育てていく。たとえ、親の期待通りの人生を歩まずとも、その歩みの中に主の守りと導きがあることを信じて、祈りつつ育てていく。
私たちの手元にある聖書は、子を神の人として十分に整えるに足る書物であり、世の過ちから子供達を守るに最高の教科書です。幼いときから、聖書を読み聞かせ、教会に連れて行き、神の人として整えられるように聖なる願いをもって、祈りつつ育てていくこと。
祝福式にこのようなことを再確認できれば幸いです。

2018.11.18 茅ヶ崎集会 子供祝福式 メッセージ要旨