主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。ヨハネ20:23

だれでの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。ヨハネによる福音書20章23節

エス様の復活は、私たちの罪がゆるされたことの保障です。

エス様の十字架を知るまでは、自分を赦すことができなかった。
けれども、イエス様の赦しの愛を知って、私たちは自分を赦すことができるようになりました。
今度は私たちが人を赦せば、そこにキリストの赦しが働き、新しい命が流れる。そのままにしておけば、心の中にこだわりが残され、キリストの赦しが働かないままとなり、それは私たちにかたくなな心として残ってしまう。
主イエス様の御前で、私は、この人を赦しますと宣言すること。そこから、赦しの力が私の内に働き、その人との関係の中に赦しの力が働き、イエス様と共に新しく生き直すことができてくる。
私たちがイエス様と共に新しく生きていくために、この赦すという心の作業を大事にしたいと思います。
 
2019,4,21 茅ヶ崎集会

あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。マルコ16章7節

ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。              マルコ16章7節

信仰のふるさとはどこですか?
 マタイによる福音書とマルコにょる福音書のそれぞれには、天使の言葉を通じて、

よみがえられたイエス様に出会いたければ、ガリラヤに行きなさいとの勧めがなされています。

ヨハネによる福音書においても、ガリラヤ湖畔でのイエス様との再会について丁寧に記されています。

 

よみがえられたイエス様が先にガリラヤへ行っているということと、また弟子たちがガリラヤでよみがえられたイエス様にお会いできるとはどのようなことなのでしょうか。

 

ガリラヤは弟子たちがイエス様に出会った最初の思い出の場所です。

ガリラヤでイエス様に呼び出された時から、一緒にイエス様にお供して、イエス様のお話を聞き、イエス様の奇跡に驚き、イエス様の愛のまなざしに感動した場所、

彼らの心が熱く燃え、互いに神の国について、ビジョンについて語り合った場所、

今まで祈ることになど縁も無かった漁師や取税人たちが、祈ることを教えられ、

エス様と共に歩む新しい生き方に感動した場所がガリラヤでした。

 

私にとってのガリラヤはどこだったでしょうか。いつの頃だったでしょうか。

思い出します。弟子たちと同じように、イエス様に呼び出され、イエス様を信じる喜び、永遠の命に出会った喜び、嬉しくて嬉しくて、毎日毎日、イエス様を讃美し続けていた日々、嬉しくて嬉しくて、イエス様を伝えたい思いでいっぱいだった日々。

私にとってのガリラヤを思い出すと今でも心が熱くなり、心が燃えます。

 

弟子たちはやがて、ローマ帝国の各地に遣わされて、復活の使者として福音を伝えてゆきますが、そこでは、内に外に激しい戦いも待っていました。

すべての弟子が殉教の死を遂げました。

そのような彼らを支えたのは、聖霊の助けであり、イエス様ご自身ではありますが、彼らを支えていたイエス様の姿、いつも彼らが思い出すイエス様の言葉はガリラヤ湖でイエス様と一緒に歩んだ日々だったのではないでしょうか。

 

聖書は、見失ってしまったイエス様を見出すためにガリラヤに戻ることを勧めているということは興味深いことです。

 

ガリラヤに戻るということは、ただ単に過去の思い出に戻るということでしょうか?

 

私たちは、現実の教会生活や宣教の現場で、今まで心に熱く燃えて活動してたのに、何かのきっかけで心くじけ、そこから失意のうちに去ってしまったという経験はないでしょうか。おおきくつまずいてしまい、そこを立ち去ってしまった悲しみの経験。そこにイエス様はもうおられないと自ら立ち去ってしまったということはないでしょうか。

しかし、すこし前は、そこに熱い情熱がそそがれていたではありませんか。

 

ガリラヤ行きなさいというメッセージは、失意うちに去ってしまったもとの現場にもう一度戻りなさいとのおすすめではないでしょうか。

そこに、もう一度生きておられるイエス様が待っておられ、イエス様がもう一度あなたと共に歩もうと待っておられます。

 

 
 
2019.4.27 片瀬山集会 2019.4.28 茅ヶ崎集会

こんな罪人の私を憐れんで下さい。ルカ18章13節

ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神様。こんな罪人の私を憐れんでください。』
                       ルカ18章13節

徴税人は、神殿を前にして階段を上ることが出来ず、下で立ち止まってしまった。
神に愛され罪深さを許していただきたいのにこんな自分は到底神に近づけない」という罪の自覚があった。
何が徴税人の足を止めてしまったのか。それは彼の中にもある「正しい行いをしている者が神に受け入れられる」という律法による救いという考え方。
エス様の福音はこの思想を根底から覆す。
人の正しい行いによって救われるのではなく、神の憐れみにただ依り頼む心(信仰)によって救われる。
救いは恵みにより与えられる。褒美ではない。

今も、礼拝に出たいと思いながら、「私みたいに世に染まり汚れた人間は教会なんかに入れない」と教会の前をとおり過ぎる多くの人がいる。
教会は正しいと自負している人のためにあるのではなく、正しくない自分を嘆いている人のためにある。
罪を自覚したならば、自分を正しいものとしようとはせず、ただそのまま、神の憐れみを乞い求めればよい。
2019.3.10 茅ヶ崎集会 建徳要旨

我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 マルコ15:34

マルコ1516節から41
エス様を自分の王とすることを頑なに拒み抹殺しようとする人の罪。
 
10
「ピラトは祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、気がついていたからである。」
祭司長たちのねたみとは何か。ゆだや人の真の王が来るならば、ユダヤをローマの圧政から解放してくれるかもしれない。なぜ、イエス様を頑なに拒んだのか。彼らの妬みとは、自分の主権が侵されるからではないか。ローマ皇帝を王としていたほうが、彼らの利権が実は守られる。宗教指導者として自分勝手な振る舞いが、世の力をほしいままにできた。まことの王が来たならば、彼らの不正が暴かれ、正しいさばきが己の身に及ぶことも承知していたに違いない。
祭司長たちの妬みとは、私たちにとって、自分が王として君臨していたい。その方が、自分の好き勝手な振る舞いのままでいられる。自分を主としていたいために、まことの主であるキリストを心の中に迎え入れようとしない。かえって追い出し、抹殺しようとする人の利己的な罪のことではないか。
 
16節から20
詩篇22編の預言の通り、イエス様は、乱暴者たちのなぶり者にされた。屠られるためにと殺場につれていかれ何も口を開かなかった羊のように、イエス様は口を開かず、無抵抗のままに暴力を受けた。
21
突然に負わされた十字架の重荷、人が人生の途中に背負わされる突然の重荷はイエス様に出会う始まりかもしれない。
30節「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」 参照 詩編228
サタンの最後の誘惑といってもいい。十字架から降りてしまえば、十字架の死にまで従い、完全なる従順のゆえに与えられる神の義が成立しなくなる。
 
神自らが自分を救えないのか。神は全能ではないのか。
神は、サタンが仕掛けた妬みによる十字架の死に負けるのか。表現はきついが、このようなことをサタンはイエス様にたいして誘惑してきた。神がなぜ愛する神の子を見捨てるのか。
あなたは「ほんとうは神の子ではないのではないか。」サタンは、イエス様の自尊心を最後に誘惑してきた。しかし、イエス様には全く利己心はなかった。全く神に信頼しきっていた。それゆえ、罪人と同じように、利己心に働きかけて誘惑することは不可能であった。
私は、妻になにか間違いや不備を指摘されると、黙ってはいられない、自分の正しさを主張し、自分の自尊心を守ろうとする。私たちの夫婦の中を裂くためにサタンは自尊心をくすぐる、私は、妻に言われ続けることに堪えられない。自分の正しさ、これは、無理矢理というわけではなく、本当に自分の理由や立場などを伝えるに過ぎない。しかし、それがけんかの火だねとなり、火は大きくなる。サタンの「自分を救え」という言葉があれば、夫婦に不和をもたらすのはたやすいことである。
しかし、イエス様は、兵士たちの暴力にも無抵抗、無言であったと同様に、サタンの誘惑に対しても、無言を貫いた。イエス様には、十字架に着くことは父なる神の御心であり、イエス様にとっては、御心に従うことこそ、イエス様の喜びであった。
34
そのイエス様が、十字架の上で「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神に叫んだ。これは、詩篇22編の冒頭である、ダビデは、最初このように叫んだが、やがて「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」と讃美に変わる。
この言葉は、父なる神への恨み節ではない。十字架の死を越えて与えられる復活の命への信頼である。
同時に、この叫びによって、イエス様の十字架の苦しみが何であるかを私たちに教えて下さる。イエス様の苦しみは父なる神様との交わりから切り離されることであり、父と私は一つであると言われた主ご自身が、神から永遠に引き離されるという罪人が受けるべき、神の刑罰を受けられたのである。イエス様が、神のさばきを罪人の身代わりに受けて下さらなかったら、どのようにして、罪人である私たちが神のさばきを受けずに救われようか。
主はまさにこの刑罰を受けるために、受けることを承知で十字架につけられたのである。
 
16章には、イエス様の復活がある。もし、神の子、救い主がほんとうに十字架の死で終わってしまったのなら、救いようのない物語であった。しかし、十字架は、神のさばきの執行であり。復活は神の赦しの保障である。弟子たちは、福音書にイエス様の十字架の死を書き残したが、それは、罪人を救うために人の姿をとった救い主の救いの道をしっかりと伝えて行くためであったと思われる。
2019,3,2 片瀬山集会 メッセージ要旨

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。Ⅰコリント11章25節

Ⅰコリント11章25節

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 
題 パン裂きにおいて「主が来られるときまで」を覚えるように勧められた主の御心
教会の中心は主の十字架です。主の十字架の死と復活が中心です。そして、礼拝の中心も主の十字架と復活です。どのような教会においても、主の十字架が語られ、啓示されてこそ、
私たちの心は、主の御前に整えられ、霊と真によって礼拝を捧げる礼拝者となることができます。十字架は私たちの避けどころでもあります。世の激しい試練にさらされている時、
私たちの逃げ込むべきところは、主の十字架です。主の十字架を見上げるとき、私たちの古き人が主と共に死んだことを覚え、もやは罪の奴隷ではなく、義の奴隷となったことを再確認することができます。私たちは、十字架の血によって、肉と心の汚れが清められてこそ、
私たちの魂は主を喜ぶ心に満たされます。
このように、主の十字架が礼拝の中で啓示されることは、信仰生活の力であり、クリスチャンの生きる根源です。
この十字架を覚えるために、主ご自身が、主の食卓を備えらたことは、大変深い主ご自身の愛の現れであります。御言葉と共に、目に見える形で主の十字架を覚えることができるパンと杯は、主の十字架の中心性をまさに表わすものです。
本論
このパン裂きの際に朗読されるⅠコリント1125節に、「主が来られるときまで」という聖句が記されていることはどのような主の御心でしょうか。
1主の再臨そのものを待ち望む。
    信徒にとっては、・空中での主との再会 先に信じて眠りについた人々との再会
そして、いつまでも主と共にいることの約束を待ち望むということです。
・テサロニケ413章から17
    その後、地上再臨において、神を認めない者、主イエスに聞き従わない者に罰を与えられる。
・Ⅱテサロニケ189
私たちが待ち望んでいるのは、主が空中に来られる時です。
ヨハネ528節、29節 「このことは驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出て来る時が来るであろう。」口語訳
・正しい者も正しくない者も復活するが、これは全く別のことであって、しかも、この間には神の目に千年という期間がある。黙示録20456
正しくない者に対するさばきはさばき主として来られるイエス様に任せて、私たちは主の再臨を待ち望むように召されています。
2 主が来られる時までとは、どのような態度で待ち望めばよいかを覚える。
この2番目の意味がこの聖句には、含まれているのではないかと教えられ、あらためて、この聖句を見つめ直しました。
ルカ1241節から48節。ここに忠実で賢い管理人としてわきまえていることがイエス様より教えられています。パンと杯をいただくときに、主の来られるときを覚えるということは、自分自身の信仰の態度をそのたびごとに吟味する時でもあるのではないでしょうか。
パンと杯は、伝統的に信仰告白をし、洗礼の住んだ信仰者に対して分け与えられるものです。
この意味は、信仰者に覚悟を問うているともいってよい。パンと杯をいただくということは、一人一人がキリストに従う決心を表わす時でありました。古代教会で明日の命も分からないクリスチャンたちが、家の中で共にパンを裂いて分かち合った時、そこには、キリストとの一致の喜び、キリストの体との一致の喜びと共に、世の戦いの激しさの中にあって今日もまたキリスト者として生きていこうという決心があったと思います。
結論
パンと杯をいただくということは、イエス様が十字架の上でご自分の命を捨てるほどにこの私を愛して下さっていることを覚えるとともに、その愛に応えていく私たちの信仰の姿勢をパンと杯をいただくという行為をもって表わしていく時でもある、それを主が再び来られる時までと言い表しているのではないかと思わされました。
2019.2.24 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた.ヨハネ12:2

「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。
ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」 ヨハネ12章2節

居るだけで良い。 ラザロは何も語りません。ラザロに必要なことは、ただ主の食卓に座っていることでした。ラザロが何も語らずとも、食卓にはイエス様が彼をよみがえらせて下さったことへの感謝と喜びが、静かに溢れていました。よみがえりを体験したラザロの存在そのものが、イエス様の偉大さを証ししました。
私たちも、人生の試練の傷跡に主の癒しを受けるために、ただ主の食卓に招かれて座っているだけの時期が必要な時があります。それは静かにじっと御言葉に耳を傾け、体と心と魂の回復を待つ時です。疲れているときは、ただ、礼拝の席に居るだけで良い。そこに居るために、どれだけイエス様が大きなことを私にして下さったことか。試練を通して主のよみがえりの命を体験した者達が、ただ主の食卓の傍にいることのできる場が教会であり、主イエス様の復活の命の溢れが周囲への証しとなることを、ラザロは教えている気がします。
2019.2.10 茅ヶ崎集会 メッセージ要旨

ピラトはイエスに尋ねた。あなたは、ユダヤ人の王ですか。マルコ15章2節

ピラトについて
ピラトはティベリウス皇帝が、反ユダヤ的政策を施行した時期にユダヤの地方総督に任命された。西暦26年から36年までこの職にあたり、反逆に対して情け容赦なき態度を取った。ルカ131
その後、ピラトは自ら起こしたユダヤ人流血事件の失策により、失脚し、左遷することになった。
 
ピラトとイエス様との出会い。
ピラトは、世俗の人であり、真理や永遠の命など目に見えない神の国にたいして全く関心が無かった。ユダヤ教、宗教家たちにも無関心であった。彼の関心は、ユダヤ人達が暴動を起こさないように監視し、ユダヤの地を平定することにあった。
全く、神の国に関心を持たないピラトであったが、福音書にある登場人物の中でイエス様と一対一で対話する機会を得た希な人物である。弟子達を除いて、イエス様に一対一で向かい会えた人は多くない。ニコデモ、サマリヤの女くらいであろうか。ザアカイのようにイエス様と食事をしながらイエス様のお話を聞いた者はいる。しかし、まったく一対一で直接質問できる距離で向かい合った数少ない人物であった。
エス様に罪が見いだせないと公言したピラト。
彼は、イエス様に対して関心は無かったが、彼の政治的な直感で、この男は、ローマに反逆するような罪は何もしていないということがすぐに分かった。ヨハネ18381946
彼は、イエス様に罪は無いということまで直感し、イエス様を釈放しようとまで務めた。彼にとっては、イエス様を信じるチャンスが目の前にあったが、彼はイエス様が誰であるか理解することができなかった。彼は、イエス様の前にひざまづくことは無かった。
エス様は、彼の心も思いはかって、『だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い』と彼の置かれた立場を弁護したとも思える発言をされている。
 
ピラトの2度目の出会い。
ピラトは、しばらくして政治的に失脚して左遷されることになる。どこかの地方でローマの役人の一人として働いたであろうか。
彼は、総督という地位を追われ、公職を奪われ、失意にあったかもしれない。
彼なりに、自分の身も、少しでも、ローマの意向、上の意向に沿わなければ、総督といえども、命令一つで、身分を奪われる、命さえも奪われかねない、軽い命であることを感じたかもしれない。いつも、上を気にし、自分の地位、身分を守ることに精一杯の人生であったことに気がついたかもしれない。
そんな中、彼は、もう一度ナザレのイエスの名を聞くことになる。
彼が、地方に退いた頃には、キリスト教は、エルサレムから始まり、エルサレム教会への迫害から弟子達がユダヤ、サマリヤ地方にまで散らばり、弟子達は、各地でまた福音を伝えていた。ピラトは、ほかの群衆と共に福音を聞いたが、ほかの誰よりもナザレのイエスのことを知っていた。自分の命令でイエスを十字架にかけるよう引き渡した張本人。自分が殺してしまったはずのナザレのイエスが、よみがえった、今も生きている、この方がまことのメシアであったという福音の叫びを耳にした。
 
ピラトは、無関心のまま福音の前を以前のようにとおり過ぎたであろうか。
神様の不思議な摂理によって、イエス様の時代にユダヤの総督とされ、イエス様を十字架につける立場に置かれたピラト、ピラトさえも、この歴史の中心的な出来事の真ん中に置かれたことを予期することもできなかった。神様はなぜ、ピラトにイエス様との出会いを与えたのであろうか。
ピラトは、弟子達による福音の叫びを再び聞くことになる。
神様の計らいは、この時のためにあったのではないか。
 
立身出世で精一杯であったサラリーマンも若いときにイエス様に出会ったことがあったかもしれない、無関心にとおり過ぎたが、今、立場も身分もなくなり一人の人としてもう一度イエス様の福音を聞く時が来るときがあるとしたら、その時、あなたは、イエス様の前に跪きますか。
2019.1.26,27 、片瀬山集会、茅ヶ崎集会