主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

それは、信じるものがみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章15節

福音を信じるとはそして伝えるとは、

エス様が永遠の命を得るために必要な一切のことを成し遂げて下さったので、

人はただイエス様を信じるだけで大丈夫だ。

エス様を信じたあとも、ただイエス様に信頼し続けていくだけで大丈夫だ。十分だ。

すべての問題は解決済み。

ただイエス様を信じていればいいんだ。

 

聖書のこまかなことはわからなくても、

まず信じることから始めればいい。

信じていれば、イエス様がすこしづつイエス様の世界を教えて下さる。

信じていれば、イエス様が一緒に歩んでいく仲間を与えてくれる。

信じていれば、イエス様が道を開いて下さる。

 

 

エス様は私たちを愛して下さっている。

私たちの汚れを知っていても、そのまま愛して下さっている。

神に言い逆らって生きている罪を許して下さっている

私たちを責めない、裁かない。

私たちの過ちを犯してしまう弱さを知っていて下さっている。

あわれんでくださっている。

 

エス様は真実で正しい方。

エス様は私たちを見捨てたりしない。放置しておかない。

私たちが迷っていても、探し出して下さる。引寄せて下さる。

たとえ、私たちが間違っていても、イエス様は間違わない。

エス様は最後の最後まで神様に向かう正しい道を歩んで下さった。

 

エス様は私たちに罪の責任をとらせない。罪の重荷を負わせない。

エス様は私たちの罪の責任を私たちの代わりにとって下さった。

エス様は私たちに代わって、誘惑に勝って下さる。

エス様は私たちに代わって戦って下さる

エス様は私たちの避難場所となって下さる。

 

生涯、この方を私の救い主、神様と信じて行けばいいんだ。

彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。イザヤ書42章2節

聖霊にこころを留める。

エス様の御降誕を想いながら、聖霊の御降誕にも心を留めています。

聖霊の御降誕という言葉は聞きなれないかと思います。

お生まれになったということではないので、

普通は聖霊の降臨と言われます。

御降誕と呼んでみたのは、聖霊の降臨もまた御子の誕生と同じように、

柔和で謙遜な霊として低くなり、神に仕え人に仕える霊として来てくださったからです。

 

ペンテコステの日に、聖霊は実に力強く弟子たちに臨んでくださったので、

私たちは聖霊の力強い勢いのある姿をイメージします。

しかし、同時に聖霊なる神様は御子の霊ですから、

実に謙遜な霊として私たちのそばに来てくださいました。

それは、全く御子がこの世に来てくださった時と同じです。

世の人々には全く関心も持たれず、静かにひっそりと貧しい姿で来られているのです。

救いを待ち望む少数の人々にご自身の誕生を知らせたように、

聖霊聖霊による救いを待ち望む少数の人々にその姿をお示しになります。

 

聖霊は、人々の間に住まわれ、臨在され遍在されています。

イザヤ書61章に預言されているように、聖霊なる神様は、今イエス様と同じ働きをこの地上で成し遂げられています。

エス様が歩まれた時は、人々の父なる神様、すなわち主がどのような御方であるかを告げ知らせるために、人の姿を通して失われた人々の前に歩んでくださいました。

今は、聖霊は目に見えませんが、人が自分の魂において救い主を求めているときに、聖霊は魂の救い主として働いておられます。

心砕かれ貧しい者には、福音が伝えられ、

心傷つきいやしを求める者には、いやしが与えられ、

悪魔に捕らわれ、悪魔からの解放を願う者には、解放を、

義を求める者には、神の恵みの年と、神の復讐の日を告げ、

すべて悲しんでいる者には、慰めを与え、

悲しみの代わりに喜びの油を

憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせて下さいます。

 

エス様は、今も聖霊として来てくださっています。

聖霊はイエス様が人の子として来てくださった時と同じように、

柔和で謙遜な霊、心砕かれた人々と共におられます。

 

主イエス様、この一年間の家族の歩みの中に共に歩んで下さり、

道からそれてしまいがちな私たち家族をお守り下りありがとうございます。

あなたの愛だけが家族を結び合して下さる唯一の絆です。

心から感謝を申し上げます。

 

 

これがあなたがたのためのしるしです。ルカ2章12節

先週お話をしましたイザヤ書42章1節にわたしのささえるわたしのしもべという御言葉が記されています。イエス様がどのような御方であるかを表現するにこのしもべという言葉はもっともふさわしいのではないでしょうか。

父なる神様が救い主である御子を『わたしのしもべ』と表現されました。

御子の誕生とは父なる神様を王様とすればいわば王子様がお生まれになったわけですから、しもべという立場、身分はあまりにも王子様にはふさわしくないのではないかと思います。しかし、イエス様は父なる神様に対して忠実なしもべとして、父なる神様を自身の主人として仕えられたという驚くべき生涯を送られました。

 

ルカによる福音書に戻りますが、

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのしるしです。』2章11,12節

 

『これがあなたがたのためのしるしです』という御言葉に新しく教えられました。

今まで、私は、このしるしは、2000年前のイエス様の誕生当時の羊飼いに与えられたしるしであると読んでいました。

しかし、このしるしは今もイエス様のおられるところを私たちに教えてくれるしるしとして続いていることを教えられました。

私たちにとってどのようなしるしとなるのでしょうか。それは、まさに『しもべ』としてのしるしではないかと思います。

イザヤの預言の通りイエス様は『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない』方。

エス様の誕生は実に静かに始まりました。ベツレヘムの夜に到着した身重の妊婦と若い夫の夫婦のことをだれも気が付かず、目を留めることもありませんでした。彼らは案内された家畜小屋に退き、マリヤはそこで月が満ちて出産しました。夫だけが見守る中の寂しい静かな誕生でした。全世界の王となる御方はだれにも気が付かれずに生まれたのです。そして、住民登録に値しない羊飼いたちの訪問を受けました。

エス様の誕生は、貧しさの中に始まりました。暖かさもなく、布一枚しかイエス様を覆うものはありませんでした。もっとも貧しくお生まれになりました。

エス様の誕生は、不衛生な汚れた中に始まりました。

神ご自身であるキリストが人の姿をとって、地上の一番低いところへ、低い姿でお生まれになったのです。

以前、フィリピンのミンダナオ島の近くにあるサマル島にある孤児院を尋ねたことがあります。この貧しい地域の中で香嶋愛さんというクリスチャン女性とその家族・スタッフが孤児のために奉仕をしています。近くのダバオ市では人々が捨てたゴミでできた大きな山で生活をしている貧しい人々がいます。世界中どこにでもある風景かもしれませんが、スラム街の中で今も貧しく、寒く、不衛生な中で幼子が生まれています。

日本においても、トイレの中で寂しく生まれる子供たちがいます。

 

エス様が神のしもべとして神に忠実に歩む生涯の姿を私たちは理解することができます。

さらに、イエス様は神のしもべであると共に罪人に仕えるしもべとして歩まれました。

ここに大きな驚きがあり、おおきなしるしがあります。

尊い主人である神に仕えるしもべであるならば、しもべも誇りをもって仕えることができるでしょう。しかし、イエス様は、罪人である私たちに仕えるために私たちよりも低く謙遜な心をもって私たちに仕えて下さるとは。

『ひとの子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くのひとのために、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』マルコ10章45節。

ザアカイという一人の金持ちがいました。彼は不正な方法で得た財産はありましたが、孤独で人々からはさげすまれていました。しかし、彼の中にはプライドだけはありました。イエス様が彼の町を訪ねてきたとき、彼は木に登り、木の上からイエス様を見下ろしていました。イエス様は、彼の登っている木の下に来て、木の下からザアカイに呼びかけました。『ザアカイ、急いで降りてきなさい』。

私たちにはプライドがあります。頑なな高慢な固い自我です。他人の声に耳を傾けることもできず、神の声にも耳を傾けることが出来ない硬い石のような心があります。そのプライドのために、人々の中に降りてくることができなくなっています。

このような人のプライドよりももっと低いところにイエス様は降りて来てくださって、私たちの心に呼びかけて下さいます。それは、このような頑なな自我をもつ私たちをも愛し、滅びることを望まず、滅びから救い永遠の命を与えたいと願う神の情熱が救い主として降りてこられたイエス様の中に溢れているからです。

人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。ルカ19章10節
わたしは正しい人をを招くためではなく、罪人を招くために来たのです。マルコ2章17節

世の中は、目立つこと、羨ましがられること、多くの人に注目をあびること、豊かになることのために、動き回っています。今も昔も変わりません。権力者は権力と握るために、誇示するために。どんな人もそれぞれの欲望を満たすために生きています。

貧しい人々、虐げられている人々、孤独の中にいる人々、社会の流れから外れてしまった人々は隅に追いやられています。しかし、今も飼い葉おけの中でお生まれになったイエス様はしもべとなってこのような人々の友となるために生きて働いておられるのです。

 

もちろん、身分の差に関わらず、すべての人は罪人です。すべての人が神に言い逆らい自分の欲望を満たすために生きている自分の罪を言い表し、神の御前に悔い改めることが必要です。悔い改めで神に立ち返らなければ人は神のさばきを受け、滅びてしまうからです。

神の御前に罪を悔い、この地上に救い主として来られたイエスキリストに赦しを乞い願うならば、だれでもその罪は赦され、永遠の命が与えられ神の子どもとなる特権が与えられます。

 

救い主の御降誕を褒めたたえます。

 

2020.12,20 茅ヶ崎集会クリスマスメッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ イザヤ書42章1節

イザヤ42章1節から13節

主を待ち望む者は新しく力を得る。

  • イザヤはアッシリアユダ王国に攻めてくる時代に生きた。かろうじてエルサレムの陥落は免れた。イザヤが死んだ後、バビロニアが起こり、ついにエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅びた。エルサレムの住人達は徹底的に蹂躙され、生き残ったユダヤ人たちはバビロンに捕囚された。後にアケメネス朝ペルシヤが起こり、クロス王は、ユダヤ人たちのエルサレムへの帰還と神殿再建を許した。
  • イザヤは、荒廃の最中、まだ見ぬ先に救い主の預言を預かった。それは、イスラエルの民に希望を与える預言であった。
  • エレミヤの預言31章15節とマタイによる2章17節への引用にあるが、エルサレム陥落による破壊・略奪・虐殺は悲惨を極めたに違いない。また、イエス様が誕生したヘロデ王の時代には、ベツレヘム近辺の2歳以下の幼子が虐殺され、それは、エレミヤの預言と救い主の誕生と重なった。
  • イザヤは、慰めようもないイスラエルの現実の中で、希望と回復の預言を語った。まだ見ぬ先に、イスラエルの回復の預言、それが救い主によってもたらされることを預言した。
  • 主を待ち望むこと。これこそ、イザヤのメッセージである。どれだけ長い間、主を待ち望まなければならないのであろうか。アッシリアの時代、バビロンの時代、イエス様の時代、そして大患難を経て、イエス様が地上に再臨するまでの時代。どれだけ待ち続ければいいのだろうか。
  • しかし、幸いなことに、私たちも同じように主を待ち続けているのであるが、同時にこの待ち続けている主がすでに来られ、イエス様を救い主として信じる者には私たちの心にすでに待ち望んでいた主が住んでいて下さっているという驚きがある。はるか先の未来のことであると同時に、私たちは心の中で主ご自身を主の到来を味わうことが許されている。これは救い主であるイエス様がすでに来てくださった新約の恵みである。
  • 私たちは主を待ち望みつつ、主にすでに与っているのである。

 

1節

  • 救い主はどのような方なのか。父なる神はその方をしもべと呼んだ。

〈わたしのささえる〉しもべ

〈わたしの心の喜ぶ〉しもべ

〈わたしが選んだ〉しもべ

彼は、神の霊を受け、〈国々に広義をもたらす〉しもべ

  • 広義とは、神の統治概念を示す。イザヤ40章10節に、統べ治めるとある。広義をもたらすとは、神の律法にそった支配が為されていくことである。神の律法による政治は、まことに平和に満ちた世界となる。広義とは神の律法を正しく遂行することである。
  • エス様ご自身が律法に忠実であられたが、この方によって神の律法による、つまり神の愛による統治を実現するために、この方はしもべとなってきてくださったのである。

2節

しもべは、柔和で謙遜である。しもべは主人に忠実であり、主人に仕える者である。

3節

いたんだ葦をおらず、傷ついた燈心を消すこともない。

葦はギリシア語で〈カノーン〉。

パピルスという葦は全長が大人の背丈の3倍ほどあり、まっすぐにすーっと伸びている。日本でいうと、若竹のようである。つまり、葦のようにまっすぐ立つ、物差しになる尺度、法則、原理。それゆえ、聖書は〈カノン〉と言われる。

  • 私たちの信仰がくじけそうになる時も消えかかってしまうときもイエス様は、

私たちの信仰を守り続けて下さる。

エス様のやさしさ、思いやり、弱さへの配慮、温かく見守り支えて下さる愛。

  • 偶像礼拝に陥り、律法が痛み、律法の炎が消えかかろうとしていたときも、しもべはくじけず、衰えることなく、ついには地に広義を打ち立てる。この方は、広義をもたらすまでくじけることない。ご自身の熱心によって成し遂げられていく。

4節

  • 島々とは、異邦人の国々を示す。私たち日本人も異邦人である。しかし、救いの恵みは異邦人にも及び私たちもしもべの実現する広義の中に導き入れられる。私たちもイエス様の教えを待ち望み、喜ぶようになる。

 

主を待ち望むこと、救いの完成を待ち望んで私たちも生きていく。主を待ち望む者を主は必ず救われる。この恵みを信じて、明日に向かって生きていきたい。

 

2020.12.13 茅ヶ崎集会建徳要旨

イエスは、ご自分の前に置かれている喜びのゆえに、へブル12章2節(新改訳)。

エスは、ご自分の前に置かれている喜びのゆえに、へブル12章2節(新改訳)。

この聖書箇所は、口語訳「喜びのゆえに」文語訳「よろこびのために」。

NIV,RSVでは「for the joy」新共同訳「喜びを捨て」フランシスコ会訳「喜びを捨て」となっています。

この聖句を解くカギはイエス様が十字架を前にして何を見つめていたかではないかと思います。

イザヤ53章11節「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」とあります。

この「いのちの激しい苦しみ」とは十字架を預言していると思われますので、イエス様はすでに「苦しみのあと」と見ていたことが分かります。

「苦しみのあと」とは十字架のあとのことでしょう。

十字架のあとにあったものは、

イザヤ53章10節「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」に記されているように、「子孫を見ることができる」という約束でした。十字架を負うことにより、罪の贖いの御業が成就し、そのことを信じる者たちが神の子どもとされ、イエス様を長子としその兄弟姉妹からなる教会が建て上げられることまでイエス様は見ておられたことでしょう。

そして、イエス様は満足されていました。

 

もう一度御言葉を振り返り、「ご自分の前に置かれている」とは何を指しているのでしょうか。

12章1節には、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあります。ここにも「前に置かれている」とあります。

前に置かれているのは、文脈から読めばそれは競争の最終地点に置かれているゴールのことでしょう。

走者は皆ゴールを目指して、後ろを振り向くこともせず走り抜けるのです。

そして、ゴールの後にあるのは栄冠です。走者にとって栄冠を受けることは最高の祝福であり、喜びです。前に喜びがあるからこそ、日々の苦しい練習にも耐え、希望を抱きながら練習に励むことができるのではないでしょうか。

私は、イエス様もただ耐え忍んだのではなく、父なる神様が用意して下さっていた最高のゴールとそこ置かれている栄冠と喜びを信じて、十字架に向かわれたのではないかと思います。つまり十字架を背負うことには意味があると信じていた。

 

私は、詳しい言語の解釈はできませんが、「喜びを捨て」という表現には、なにか

カトリックにある修道院的なにおいを感じます。つまり禁欲そのものに意味を見出していくような修行です。罪人である人間は、己の十字架を負うまえに、世の楽しみを捨てする覚悟も必要なのかもしれません。ただ、十字架は自ら好まずともクレネ人のように負わされてしまうもの。

しかし、イエス様は、はじめより世に属しておらず、世の欲はありませんでした。

人もイエス様ご自身の出会った時、イエス様に出会ったすばらしさと内より湧き上がる喜びのゆえに、今まで楽しいと思っていた世の楽しみなどなんの価値もないことを悟ります。多くのクリスチャンがこの救われた喜びを賛美で言い表しています。

 

これはまったく個人的な感想であり、聖書を論ずる資格は私にはありませんが、私は、新改訳聖書と新共同訳聖書を読み比べて、三十年来新共同訳聖書を読んでいますが、どうしても新共同訳聖書になじむことのできない理由の一つがここの聖書の訳にあります。

 

聖書全体を見ると、主に在って私たちの労苦が無駄になることがないことが分かります。イエス様は、主に忠実な僕に対してちゃんとその行いを記憶にとどめておられ、報いを与えて下さる方であることが分かります。

 へブル11章16節「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」とあるように、私たちも天の故郷を仰ぐことがゆるされているからこそ各自の十字架を忍ぶことができるのではないでしょうか。

2020.11.8 茅ヶ崎集会 建徳要旨

アラビアに退いて ガラテヤ書1章17節

先日、石原知弘牧師のメッセージから、「神様がゆっくり以降と言われるならゆっくり行けばいい、一回立ち止まろうといわれるなら止まればいいのです。遅れてもいいのです。クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる」という言葉を頂きました。

 我が家の4年生の男の子が、夏休みが終わってから、学校でのいじめによって、学校が大好きだったのに、突然学校に行けなくなり、毎日、家でてもちぶたさに過ごす姿を見て、親としてどう受け止めて行ったらよいのかまだ試行錯誤の中にあります。

 

ただ、イエス様がこのような状況下の中にあってもいろいろと支えて下さっているのを見せて下さるので、不安の中にあっても平安もあります。

 

妻が1年くらい前から、市内の不登校の子供たちの施設にアルバイトで勤め始め、

今も非常勤っぽく働いていたため、幸いにも、子供もそこに居場所が与えられています。

本人は、学校に行きたくて、前日までは行くというのですが、当日になると、不安が強いらしく、動くことができなくなってしまいます。相当強いトラウマを受けてしまったのだなと感じてしまいます。

でも、行きたくてもいけない、したいことがわかっていてもできない。こういうことは、クリスチャンであれば、よくあります。聖霊がとめている。

私も、伝道、教会の活動でこんなことがしたい、すすみたいと思ってはいても、止められているとしか思えないほど、前に進めないことがしばしばありました。そのような時は、ただ目の前に与えられている日常を過ごしながら、立ち止まっているほかありません。

子どもを見ていて、本人は本当に苦しいだろうけど、立ち止まるようにと促されている気がします。この学校に行けなくなってしまったという現実の背後に、子供を愛して下さっているイエス様の御計画があるのだと信頼し、祈りに委ねることができることは幸いです。

エス様が子供に立てている計画を誰よりもよくご存じであること。

不登校というイエス様の計画は、決して災いではないこと。

むしろ、平安をあたえようとするイエス様の計画であること。

そして、この不登校を通して、イエス様は子供に私たち親には想像もできなかった新しい将来を与え、希望を与えようとしている計画であることを信じて日々祈ります。

この機会に、本人も個人的にイエス様に祈り、御言葉を心の支えを見出せるようになることを祈ります。

 

パウロは劇的な回心をしたあと、エルサレムの教会と一緒に活動を始めたのかというとそうではなく、異邦人伝道という使命も与えられたため、アラビアに退きました。

3年後に、エルサレムに上り、わずか2週間だけ滞在し、またすぐにシリアの方へ退きました。それから、14年も経って再びエルサレムに上りました。

いったん表舞台から消えたように見えたパウロですが、ご存じのように言い表せないほどの大きな働きをされました。

 

アラビアに退いていた間、イエス様はパウロに何もしなかったのではなく、信仰を練り浄め、深くし、耕し、多くの人々に福音を伝え、教会を設立する神の器として整えて下さっていたのです。

 

エス様は前に進むだけでなく。退くようにも導かれる方、人の目には後退しているように見えても、そこには、人を深く耕すイエス様の大きな働きが進められていることを信じて、祈る者でありたいと願います。

 

先日、子供が運動会は見に行きたいと1,2週間くらい前から言っていて、

玉入れだけはしたいなあと本人もつぶやいていました。直接参加できなくても、周りから見学するだけでもいいと思いながら、担任の先生にも事前にお話しをし、準備をしていました。

当日の朝を迎え、なんとか布団から抜け出し、本人も行こうという気になったようです。

ところが、直前になり、やっぱり行かない、行かないと決めたから行かないと動かなくなってしまいました。

その姿を見て、ほんとに行きたくても行けないんだなということが分かったので、無理せず見守るしかありません。

時間が過ぎ、運動会が始まってしまい、一時間くらい家で、ゲームをして過ごしていましたが、わたしもせっかくの休みだったので、じゃあ、散歩でも行こうかと誘うと、学校行かないの?と本人からの意外な返事が。じゃあ、行こうかと、車でまず近くのコンビニまで行きました。家から出て学校の近くにまで行けるだけでも、今日はいいのではと思っていたところ、本人から学校にいくために来たんじゃないかと、車を降りました。

どこまで、行ける、近づけるのかと気になりながら、子供についていくと、

遠くからゆっくりゆっくりではありますけれど、自分のクラスの席のほうに近づき、

しばらく遠くで眺めていましたが、行ってもいい?というので、クラスの席の後方にまで近づいてクラスの友達を一緒に眺めていました。

そのうち、クラスの子が気が付き、○○だ!と声を上げ、皆がきがつき、手を振り、声をかけ始めてくれました。本人は、まだじっとしていました。

ちょうどその時、次のプログラムの玉入れが始まり、子供たちが準備で席を立って集まり始めたとき、クラスの友達たちが先生のもとに駆け寄り、○○が来ていると話してくれ、先生も一緒に駆け寄ってきてくれました。一緒にやろうよ!、人が必要だから手伝ってよ、友達たちも駆け寄り、まだ躊躇している子供の手を握り、仲間の輪に引き入れてくれました。その様子を見て、私も涙が出てきました。

 

エス様が本人の心を知り、一番やりたかった玉入れができるように配慮して下さったことを感じました。運動会に早く行き過ぎても、自分が参加できない競技があり、居場所がなかったかもしれません。少し遅すぎても、もう玉入れの競技が始まり、参加できなかったかもしれません。ちょうどいいタイミングで、クラスの席に近寄り、クラスの子たちに声をかけてもらえたおかげで無事に参加することができました。

クラスの仲間たちと先生に感謝です。  

エス様ありがとう。

 

 

 

 

 

わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。エゼキエル36章

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。詩篇23:3
しかし主は、御名のために彼らを救われた。それはご自分の力を知らせるためだった。
詩篇106:8

1:神の名はイエス
・そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。ヨハネ17:26
私たちクリスチャンは当然のようにイエス様の名を呼んでいるのは、イエス様がご自身の名を教えて下さったからです。
エス様という名こそ、天地創造の神の名です。かつて、神は、ご自身をあってあるものと紹介していました。また、イスラエルの民をエジプトから救い出した神の名を主と呼び、他国の神々と区別しました。イスラエルの神の名は主でした。
そして、新約聖書の時代になり、神は、イエスの名をもって、この地上世界に現れて下さいました。
このイエスこそ、神が遣わされたメシアであり、このメシアは十字架と復活により、救いの御業を完成された後、天に帰られ、イエスを主とされました。そしてイエスの御名は教会の頭として与えられた名です。

・わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。ヨハネ17:6
・わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。他の人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れます。ヨハネ5:43
・あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。17:11

 

2.イエスの御名を教えられるとは。

・その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。
・彼は言った。「主よ、私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。ヨハネ9章36,37節

ここには、主の御名を教えられた一人に盲人の証があります。
この盲人は、イエス様にシロアムの池に行くように言われ、その通りにすると目が見えるようになりました。しかし、全盲であったために、誰が行くように言ったのかは分かりませんでした。
しかし、彼はその方を知りたいと願いました。
彼はその方がメシアであると心の中では思っていました。しかし、彼はまだメシアは誰であるかを知りませんでした。

エス様はご自身がメシアであり、神の名であることを告げようとされました。
エス様がご自身の名を知らせると、彼はイエス様を神と礼拝しました。

彼は、自分を癒してくれたのは神であると知っていましたが、神の名をまだ知らされていなかったために、誰を礼拝したらよいかわからずにいました。神の名はイエスであると教えられ、彼は心から神の名を呼びながら、神を礼拝する喜びと特権に与ることができました。 

3:御名を教えられた者に対する神の恵み。


・わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。

イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためでなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。

わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。エゼキエル36章
21、22、23節。

 

エス様が私たちにご自身の御名を教えられたことにより、イエス様はご自身の御名にかけて、私たちを一人も滅びることなく永遠の命を得るように守って下さる恵みをくださいました。

エゼキエル書に聖なる名とあります。聖であるとは、俗と対する言葉であります。俗は世の汚れ、人の欲の世界です。聖と俗は決して交わることはありません。俗(世の汚れ)がどれだけ、聖を汚そうと覆いつくしても、聖は聖であるがゆえに、決して汚れることはありません。世に影響されることなく永遠に、聖さを保たれているのが聖です。

神はご自身の聖さを自ら証しするために、人がどれだけ汚れていても、どれだけ神の名を汚したとしても、ご自身の聖という名にかけて、ご自身の聖さを証されます。

それゆえ、イスラエルが偶像礼拝に陥り、神の御名を汚したにも関わらず、イスラエルにメシヤを与え、千年王国の祝福を約束されました。

祈り。

エス様、私たちは、愚かしく、不従順で、自分の利益を求め、神を求めないものです。
本来ならば、自分の行いによって、神の怒りに定められてなにも申し開きの出来ない者です。
にもかかかわらず、あなたは私たちを愛し続けて下さっています。
守り続けてくださっています。
それは、私たちが正しく歩めたからではなく、ただただ、あなたの御名が聖いからです。
あなたの御名は正義であり、真実であり、永遠であります。それは、人の持つ正義のように立場によって移り変わるものではなく、永遠に変わらない正義であり真実です。

私たちが、暗闇の中であなたの聖なる御名を呼び求めたとき、あなたはその叫びに耳を留めてくださいました。その呼び求めに応え、私たちを暗闇の中から光の中へ招き、導いて下さいました。
主よ、あなたは、その時から、一度も私たちを見捨てず、見放さず、
不埒な私たちを守り、導いて下さっています。

それは、ほんとうに私たちが正しいからではなく、清いからでもなく、従順だからでもなく、
ただ、ただ、あなたが正しく、真実で、永遠で、愛の方だからです。

主よ、あなたは、あなたの聖なる御名を決して、ご自身の聖にかけて汚すことはされません。
私たちは、あなたが、あなたの聖なる御名をご自身でどこまでも守られる方であることを知るとき、
平安を得ることができます。

それは、私たちの救いがどこまでも、私たちによるのではなく、完全にあなたの一方的な憐れみによるのだということを知るからです。

エス様、あなたをほめたたえます。感謝。

 

2020.10.11 茅ヶ崎集会建徳要旨