主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

アラビアに退いて ガラテヤ書1章17節

先日、石原知弘牧師のメッセージから、「神様がゆっくり以降と言われるならゆっくり行けばいい、一回立ち止まろうといわれるなら止まればいいのです。遅れてもいいのです。クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる」という言葉を頂きました。

 我が家の4年生の男の子が、夏休みが終わってから、学校でのいじめによって、学校が大好きだったのに、突然学校に行けなくなり、毎日、家でてもちぶたさに過ごす姿を見て、親としてどう受け止めて行ったらよいのかまだ試行錯誤の中にあります。

 

ただ、イエス様がこのような状況下の中にあってもいろいろと支えて下さっているのを見せて下さるので、不安の中にあっても平安もあります。

 

妻が1年くらい前から、市内の不登校の子供たちの施設にアルバイトで勤め始め、

今も非常勤っぽく働いていたため、幸いにも、子供もそこに居場所が与えられています。

本人は、学校に行きたくて、前日までは行くというのですが、当日になると、不安が強いらしく、動くことができなくなってしまいます。相当強いトラウマを受けてしまったのだなと感じてしまいます。

でも、行きたくてもいけない、したいことがわかっていてもできない。こういうことは、クリスチャンであれば、よくあります。聖霊がとめている。

私も、伝道、教会の活動でこんなことがしたい、すすみたいと思ってはいても、止められているとしか思えないほど、前に進めないことがしばしばありました。そのような時は、ただ目の前に与えられている日常を過ごしながら、立ち止まっているほかありません。

子どもを見ていて、本人は本当に苦しいだろうけど、立ち止まるようにと促されている気がします。この学校に行けなくなってしまったという現実の背後に、子供を愛して下さっているイエス様の御計画があるのだと信頼し、祈りに委ねることができることは幸いです。

エス様が子供に立てている計画を誰よりもよくご存じであること。

不登校というイエス様の計画は、決して災いではないこと。

むしろ、平安をあたえようとするイエス様の計画であること。

そして、この不登校を通して、イエス様は子供に私たち親には想像もできなかった新しい将来を与え、希望を与えようとしている計画であることを信じて日々祈ります。

この機会に、本人も個人的にイエス様に祈り、御言葉を心の支えを見出せるようになることを祈ります。

 

パウロは劇的な回心をしたあと、エルサレムの教会と一緒に活動を始めたのかというとそうではなく、異邦人伝道という使命も与えられたため、アラビアに退きました。

3年後に、エルサレムに上り、わずか2週間だけ滞在し、またすぐにシリアの方へ退きました。それから、14年も経って再びエルサレムに上りました。

いったん表舞台から消えたように見えたパウロですが、ご存じのように言い表せないほどの大きな働きをされました。

 

アラビアに退いていた間、イエス様はパウロに何もしなかったのではなく、信仰を練り浄め、深くし、耕し、多くの人々に福音を伝え、教会を設立する神の器として整えて下さっていたのです。

 

エス様は前に進むだけでなく。退くようにも導かれる方、人の目には後退しているように見えても、そこには、人を深く耕すイエス様の大きな働きが進められていることを信じて、祈る者でありたいと願います。

 

先日、子供が運動会は見に行きたいと1,2週間くらい前から言っていて、

玉入れだけはしたいなあと本人もつぶやいていました。直接参加できなくても、周りから見学するだけでもいいと思いながら、担任の先生にも事前にお話しをし、準備をしていました。

当日の朝を迎え、なんとか布団から抜け出し、本人も行こうという気になったようです。

ところが、直前になり、やっぱり行かない、行かないと決めたから行かないと動かなくなってしまいました。

その姿を見て、ほんとに行きたくても行けないんだなということが分かったので、無理せず見守るしかありません。

時間が過ぎ、運動会が始まってしまい、一時間くらい家で、ゲームをして過ごしていましたが、わたしもせっかくの休みだったので、じゃあ、散歩でも行こうかと誘うと、学校行かないの?と本人からの意外な返事が。じゃあ、行こうかと、車でまず近くのコンビニまで行きました。家から出て学校の近くにまで行けるだけでも、今日はいいのではと思っていたところ、本人から学校にいくために来たんじゃないかと、車を降りました。

どこまで、行ける、近づけるのかと気になりながら、子供についていくと、

遠くからゆっくりゆっくりではありますけれど、自分のクラスの席のほうに近づき、

しばらく遠くで眺めていましたが、行ってもいい?というので、クラスの席の後方にまで近づいてクラスの友達を一緒に眺めていました。

そのうち、クラスの子が気が付き、○○だ!と声を上げ、皆がきがつき、手を振り、声をかけ始めてくれました。本人は、まだじっとしていました。

ちょうどその時、次のプログラムの玉入れが始まり、子供たちが準備で席を立って集まり始めたとき、クラスの友達たちが先生のもとに駆け寄り、○○が来ていると話してくれ、先生も一緒に駆け寄ってきてくれました。一緒にやろうよ!、人が必要だから手伝ってよ、友達たちも駆け寄り、まだ躊躇している子供の手を握り、仲間の輪に引き入れてくれました。その様子を見て、私も涙が出てきました。

 

エス様が本人の心を知り、一番やりたかった玉入れができるように配慮して下さったことを感じました。運動会に早く行き過ぎても、自分が参加できない競技があり、居場所がなかったかもしれません。少し遅すぎても、もう玉入れの競技が始まり、参加できなかったかもしれません。ちょうどいいタイミングで、クラスの席に近寄り、クラスの子たちに声をかけてもらえたおかげで無事に参加することができました。

クラスの仲間たちと先生に感謝です。  

エス様ありがとう。