主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエスは、ご自分の前に置かれている喜びのゆえに、へブル12章2節(新改訳)。

エスは、ご自分の前に置かれている喜びのゆえに、へブル12章2節(新改訳)。

この聖書箇所は、口語訳「喜びのゆえに」文語訳「よろこびのために」。

NIV,RSVでは「for the joy」新共同訳「喜びを捨て」フランシスコ会訳「喜びを捨て」となっています。

この聖句を解くカギはイエス様が十字架を前にして何を見つめていたかではないかと思います。

イザヤ53章11節「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」とあります。

この「いのちの激しい苦しみ」とは十字架を預言していると思われますので、イエス様はすでに「苦しみのあと」と見ていたことが分かります。

「苦しみのあと」とは十字架のあとのことでしょう。

十字架のあとにあったものは、

イザヤ53章10節「もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」に記されているように、「子孫を見ることができる」という約束でした。十字架を負うことにより、罪の贖いの御業が成就し、そのことを信じる者たちが神の子どもとされ、イエス様を長子としその兄弟姉妹からなる教会が建て上げられることまでイエス様は見ておられたことでしょう。

そして、イエス様は満足されていました。

 

もう一度御言葉を振り返り、「ご自分の前に置かれている」とは何を指しているのでしょうか。

12章1節には、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあります。ここにも「前に置かれている」とあります。

前に置かれているのは、文脈から読めばそれは競争の最終地点に置かれているゴールのことでしょう。

走者は皆ゴールを目指して、後ろを振り向くこともせず走り抜けるのです。

そして、ゴールの後にあるのは栄冠です。走者にとって栄冠を受けることは最高の祝福であり、喜びです。前に喜びがあるからこそ、日々の苦しい練習にも耐え、希望を抱きながら練習に励むことができるのではないでしょうか。

私は、イエス様もただ耐え忍んだのではなく、父なる神様が用意して下さっていた最高のゴールとそこ置かれている栄冠と喜びを信じて、十字架に向かわれたのではないかと思います。つまり十字架を背負うことには意味があると信じていた。

 

私は、詳しい言語の解釈はできませんが、「喜びを捨て」という表現には、なにか

カトリックにある修道院的なにおいを感じます。つまり禁欲そのものに意味を見出していくような修行です。罪人である人間は、己の十字架を負うまえに、世の楽しみを捨てする覚悟も必要なのかもしれません。ただ、十字架は自ら好まずともクレネ人のように負わされてしまうもの。

しかし、イエス様は、はじめより世に属しておらず、世の欲はありませんでした。

人もイエス様ご自身の出会った時、イエス様に出会ったすばらしさと内より湧き上がる喜びのゆえに、今まで楽しいと思っていた世の楽しみなどなんの価値もないことを悟ります。多くのクリスチャンがこの救われた喜びを賛美で言い表しています。

 

これはまったく個人的な感想であり、聖書を論ずる資格は私にはありませんが、私は、新改訳聖書と新共同訳聖書を読み比べて、三十年来新共同訳聖書を読んでいますが、どうしても新共同訳聖書になじむことのできない理由の一つがここの聖書の訳にあります。

 

聖書全体を見ると、主に在って私たちの労苦が無駄になることがないことが分かります。イエス様は、主に忠実な僕に対してちゃんとその行いを記憶にとどめておられ、報いを与えて下さる方であることが分かります。

 へブル11章16節「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」とあるように、私たちも天の故郷を仰ぐことがゆるされているからこそ各自の十字架を忍ぶことができるのではないでしょうか。

2020.11.8 茅ヶ崎集会 建徳要旨