主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

礼拝の言い表しと礼拝の豊かさ。                          みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。ローマ10章9節

礼拝の言い表しと礼拝の豊かさ。 

 

『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。ローマ人への手紙10章9節

というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。Ⅰコリント人への手紙1章4節

 

礼拝の言い表しとは自らの口で主はどのような御方であるかを告白することです。 

週報は、主ご自身の御名をどのように言い表したかの記録です。

み言葉と賛美を通して主の御名を言い表すことを主は喜ばれています。

ただ、数年間以上も前から自らの口で主の御名を言い表すことが消えていることが気にかかっていました。 

多くの教会では使徒信条を全員で告白します。使徒信条には、聖書の神をどのように信じ、使徒たちがイエス様をどのように伝えてきたのかという教えが要約され世界のキリスト教会でおよそ1世紀から続けられています。 

ここの教会では使徒信条の告白がプログラムとしては礼拝の中に採用されていません。

使徒信条を含め、教会として信仰告白がなされていない教会は怪しい教会です。

教会内に異端が入り込んできた時に、それは違うという根拠を示せないからです。

(もちろん、新生している信者にとっては、御霊により霊においてその教えが神からのものか悪魔からのものかを見分けることはできます。御霊は神に関わるすべてのことを教えて下さるからです。羊は羊飼いの声を聴き分けます。)

もう一つは、共同体としての信仰告白が定まっていなければ、時の伝道者の信仰に影響されてしまうからです。

 

ではなぜ使徒信条の信仰告白が採用されていないのでしょうか。

それは、使徒信条だけでは主の御名を言い表しきれていないからだと思います。

主のお値、主の尊さを言い表すには足りない、もっと自らの口で主ご自身のすばらしさを告白したいという情熱から生まれてきたのではないでしょうか。

例えば、信条にはイエス様は私の良い牧者ですとは告白されていない。イエス様は恵み深い方とも告白されていない。イエス様はいつもともにいて下さるとも告白されていない。しかし、どれも大切な信仰告白です。

エス様が、どのような良い神であるかの告白が聖書全体にちりばめられています。

わたしたちは教会の信条を前提にしながら、

聖書全体を紐解きながら自らの口で主を告白して神に礼拝を捧げるというスタイルをとっているのです。

使徒信条だけでは言い表しきれないイエス様の御名を言い表すために、一人ひとりが自らの口で主を言い表す自由がこの礼拝に許されているということをぜひ覚えていていたい。

 

神は、私たちが口で告白するようにご自身を現して下さる方です。

エス様は私の良い牧者ですと言い表す者にはそのように現れて下さる。

エス様は私の救い主ですと告白すればイエス様はあなたの魂の救いとなって下さる。

もし、人が主の御名を言い表さないなら神はそのようには現れて下さらない。 

 

礼拝の豊かさとは、教会の民がどれだけ豊かに主の御名を知っているか、主の御名を呼び求めているかに関わってくるものです。 

もし、自らの口で主の御名を言い表さないなら、全員で信徒信条を告白することのほうがまだ良いと思います。

自らの口で主がどのような御方であると信じているかを告白することの大切さを覚えていきたい。 

2024,1,7 茅ヶ崎礼拝

 

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ人への手紙12章21節

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。ガラテヤ6章9節

自分の中にある悪の行いに失望してしまい、善を行うことをあきらめてしまってはならない。

家庭の中、職場の中に悪がはびころうとしていたとしても、自らは善を行うことにうみ疲れてはならない。

かえって、善を行い続けることこそが悪に打ち勝つ最大の攻撃である。

サタンの狙いは、悪を見せつけて、悪に圧倒されてしまい、神に期待することをあきらめさせてしまうことにある。

それゆえ、たとえ小さな善であっても、善を行うことにうみつかれてはならない。

自分の罪過に失望しても歩みを止めることなく、

信仰のある友のために祈り、分かち合い、

困窮する人々のために祈り、分かち合い、

家族のために祈り続ける。

 

私たちは善の行いによって義とされるわけではないが、

神は、義とされた私たちには善を行うことを勧めておられる。

 

コリント人への手紙第二

13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく、私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。

 

ガラテヤ人への手紙

6:9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。(口語訳)

テサロニケ人への手紙第一

5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

 

ヘブル人への手紙

13:16 善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。

 

ペテロの手紙第一

3:11 悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。

朝ごとに私を呼び覚まし、イザヤ書50章4節

主イエス様、

おはようございます。

今年も何はともあれ、私の外にどんな災害、災い、事件、困難、人との葛藤があろうとも、

私の内に、罪による罪責感、汚れ、失望、不安、動揺があろうとも、

順境の時も逆境の時も、

まず神の国とその義を第一に求めますと告白し、

神の御国を味わう時と神の義であるイエス様を味わう時を一日の最初に持たせていただきます。

嬉しいことに、

聖霊なる神様は朝ごとに私を呼び覚まし、主の御声を聞くようにして下さいます。

朝の静かなひと時に、聖霊なる神様はか細い声で語り掛け、

主ご自身の尊さを現してくださいます。

そのことが嬉しく、私は毎日、朝にあなたに会う備えをします。

主よ、どうか私の耳を開いてください。

主よ、どうかわたしに弟子の舌を与えて下さい

主よ、どうか私に疲れた者をことばで励ますことを教えて下さい

主よ、どうかあなたの弟子のように聞く者とならして下さい。

 

神である主は、私に弟子の舌を与え、

疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに、

私を呼び覚まし、

私の耳を開かせ、私が弟子のように聞くようにされる。イザヤ書50章4節

神の恵みがその上にあった。ルカ2章40節

不思議なこと。

2023年は主日の礼拝で始まり主日の礼拝で終わることができました。

神の民にとって礼拝に始まり礼拝に終わることのできる一年であったとはなんと恵みに満ちた一年であったことでしょうか。

一つ皆様にお尋ねしますが、今年の1月1日に、今年中にあった数々の出来事を予め予想できた人はいるでしょうか?誰もいないと思います。

今年、一年の中で思いがけない出来事、予想もできなかった出来事があった人はいるでしょうか。いくつもあったと思います。思いがけないことが起こったということは、それは神様が与えて下さった出来事の証ではないかと思います。

思いがけない時、私たちは驚き、困惑し、あるいは予想以上の祝福と導きに神に感謝と祈りを捧げます。

想定外のことが起こる一年間であったとしても、

この年の終わりの主日にまた皆様と一緒に礼拝を捧げられているということは、

私たちのこの一年間の物語の上に、ルカが記したように私たちにも『神の恵みがその上にあった』と言えるのではないでしょうか。

 

39節
さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰った。

ルカはこの1節でイエス様の幼少期をまとめている。

エス様の家族は、順調に主の律法による定めを果たして、
順調にナザレの町に帰った。そしてナザレの町で思春期を送り始めたように記している。
しかし、この一節の中には、大変な大事件が彼らの生活に襲い掛かっていたことを私たちは覚える。それは、ベツレヘムで起きた大虐殺の事件である。
星に導かれた博士たちの訪問を受けたその夜直ちに、彼らはみ使いのお告げを受け、ただちにベツレヘムを抜け出し、エジプトへの逃避行を実行したのだ。
 

実はこれは非常に不思議なことだ。なぜなら、ルカは福音書を記す最初にすべてのことを初めから綿密に調べて、順序だてて書き記すと宣言してから書き始めているのだ。

なぜ、これほどの大きな家族に起こった事件、博士の来訪とエジプトへの逃避行、ヘロデ王の大虐殺を記さないでおけたのか。

ルカは、イエス様の幼少期を次の言葉で締めくくっている。

『神の恵みがその上にあった』
彼らにとって逃避行は大変な旅であったはずだ。

しかし、振り返れば、
その旅はもっとも必要な時に備えられ、急ではあったが旅の必要も備えられ、

そして確かにほかの幼子達が虐殺された事実は嘆かわしいことではあるけれど、
聖家族は守られた。

エジプトへの避難においても安全が与えられ、
そして無事にナザレの町に戻ることができた。
その上にとは、これらの思いがけない出来事のすべての上に神の恵みがあったというふうに私は読むことができたのです。いかなる事が私たちの生活に起ころうとも、

神の愛のまなざしは私たちに注がれ続けている。神の誠実さ、真実さは私たちの人生の波風によって変わるものではない。

神は私たちを愛しているがゆえに、

神は神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8章28節

ということが『神の恵みがその上にあった』という意味につながるのではないでしょうか。

 

『今あるは神の恵み』
第一コリント15章10節
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

詩篇103篇
4節 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。
8節 主は憐み深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
11節 天が地よりも高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
17節 主の恵みはとこしえから、とこしえまで
詩篇106篇
45節 主は彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、
彼らをあわれまれた。

詩篇23篇
6節 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。

2023.12.31 湘南コミュニティーチャーチ 礼拝

 

 

神様の「恵み」とは?
I. 初めに
現代の私たちに対する神様の態度は、恵みとあわれみと平和に満ちています。恵みとは、「あふれるばかりの神様の好意」です。神様は、私たちに好意を示されますが、私たちにはそれを受け取る資格がありません。ですから、私たちは救いをただで受けるのです。恵みという言葉は、聖書の中に160回以上出てきます。そのうち128回は新約聖書に出てきます。神様は、「あらゆる恵みに満ちた神」と呼ばれるのです(1ペテロ5:10)。 キリストは、「恵みに満ちているおかた」(ヨハネ1:14)です。聖霊は、「恵みの御霊」と呼ばれます(へブル10:29)。このようにして、三位一体の神様は、恵みで密接につながっているのです。
II. 定義
旧約聖書で恵みという語は、「身分の低い者に対して親切にするとか、身をかがめる」という意味で使われています。新約聖書では、「好意、誠意、慈愛」を意味します。
以下の定義は、恵みとは何かをよく説明しています。
A. 恵みとは、それを受けるにふさわしくない対象に対して示された、愛です。神様は愛です。しかし、その愛が、犯罪者や汚れた者や神に逆らう罪人に注がれると、それは恵みです。
参照:https://bbn1.bbnradio.org/japanese/

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。ヨハネ1章9節

祈り

主イエス様、あなたが私の救いとなってくださった日から多くの月日をあなたと共に過ごして参りました。

ふつつかなしもべですが、あなたは私を見捨てず見放さず、あきらめず、

私の主、私の良き牧者でいて下さるこの絶大な恵みを

今日のクリスマスの日に感謝いたします。

 

このふつつか者の過ちをいつも見過ごして下さり、ある時は𠮟責し、あるときは汚れをぬぐいとって下さり、ある時はあなたの御翼の影に覆って下さり、悪魔からの激しい誘惑と攻撃から守って下さいました。

 

私の罪の行いを見れば今も滅ぼされて当然の私ですが、私の罪の贖いのためにご自身のいのちを神にささげて下さったその尊い犠牲が完全であることを信じ、このふつつかなしもべが今日も罪ゆるされていることを信じ受け入れ、感謝を捧げます。

 

今日から始まります新しい人生を主ご自身に捧げます。

どうか主ご自身の栄光が現わされますように。

 

9節:すべての人を照らすまことの光。

エスという一人の人としてお生まれになった救い主はこの世に人として生まれる前より、永遠に存在されている神ご自身でした。

この御方は神のことば、永遠の真理であり、

この御方は造られた方、永遠の創造主であり、

この御方は、いのち、すべての生きとし生けるものの根源的ないのちであり、

この御方は、人の光でありました。

この御方は、罪の暗闇に閉じ込められ苦しんでいる人に光を与えるために自ら人の姿をとってこの世に生まれようとしていました。

10節:世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

私たちは罪の虜となり、盲目になってしまいました。私たちはだれに造られたのかを忘れ、どこから来たのかを忘れ、何の目的のために生まれたのかも忘れ、知らずにいます。

神は私たちを愛するために創造され、人は神に愛されるために存在し、神は、人が神の愛を知り、人が神を愛することを至上の喜びとするにもかかわらず、その愛の応答が交流が途絶えてしまっていたのです。

 

神は神と人との愛の交わりを回復し、神と人が、そして人と人が互いに愛し合うことの喜びを回復させるために、御子をこの世にお遣わしになったのです。

11節;この方はご自分の国に来られたのに

2023年前、この方はご自分の国であるユダヤベツレヘムで母マリヤ夫ヨセフの子として家畜小屋でお生まれになりました。この国の中心都市エルサレムの人々はまだ知らない時に、野にいる羊飼いたちと共にその誕生を祝いました。

 

 

12節;しかし、この方を受け入れた人々、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。

神様は恵み深い方です。

神様の私たちに対する愛は真実で誠実です。神様の愛は私たちの不義、不信実、不信仰などの人の態度によって揺らぐようなことはありません。

たとえ私たちが神を知らないと言っても、神はこの方、イエスキリストを救い主として信じて受け入れる人々に神の子供とされる特権をお与えになりました。

この方を信じた人々の心の中には光が宿り、その光によって自分が神に愛されている存在、そして神を愛する存在であることに再び気が付くことができるようになりました。

自身が神の子供であることを自分がどこからきてどこに行くのかを知り、暗闇の淵より抜け出すことができるようになりました。

エスキリストを受け入れた人々は、魂の内側に神のいのちが溢れ流れることを発見し、この方のいのちによって喜びを得るようになりました。

クリスマスの喜びはこの方のいのちから来る喜びです。

13節;血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、

この救いの恵みは、この方を個々人が信じ受け入れるところに始まります。

ユダヤ民族だからという誇りは無価値です。

クリスチャン家庭に生まれたからという誇りも無価値です。

人の熱心さにより救われるのではありません。

聖書の知識があるからといって救われるのでもありません。

この救いの恵みは、この方を個々人が信じ受け入れるところに始まります。

そこには身分も人種の差別は無く、皆平等に救いの恵みが開かれています。

 

14節;ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

この言こそ、

2023年前、ユダヤベツレヘムにお生まれになりナザレでお育ちになったイエス様です。

この方は生涯罪を犯すことなく、神の律法に従われ、神の愛を説き、人を愛し、弟子を育て、神の姿をこの世に示し続けた真の人、真の神です。

生涯の最後に神のみ旨に従って人の罪をその身に背負い、自ら十字架にかかり死なれた方。そして黄泉に下り三日目に死人の中からよみがえり、弟子たちの前に現れ、復活されたことを現し、弟子たちの前で天に挙げられ、神の右に座し、巻物を解くのにふさわしい方と認められ、天においても地においてもすべての名にまさる名を与えられ、

教会の頭、主の主、王の王となられた御方、万軍の主となられた御方です。

メリークリスマス!

2023.12.24 茅ヶ崎 主日礼拝クリスマスメッセージ

 

 

 

イエス・キリストの誕生は次のようであった。マタイ1章18節

主は道を示される。

マタイ1章18節~25節

その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。18節

神様は聖霊によってご自身の計画を形に現わされます。聖霊は、自然科学の法則をはるかに超えた、神ご自身の計画を実現する務めを果たしておられます。神様は聖霊によって、神様の救いの計画を進めておられます。この地上に救い主を送られる際には、

聖霊の御業が強く働かれました。

神様はご自身の救いの計画をマリアとヨセフという夫婦を用いて実現しようとされました。

 イエスはご自分の民をその罪から救って下さる神です。

その名はインマヌエルと呼ばれる方。インマ:一緒に 。ヌ;私たちと エル;神

神は私たちと共におられるという意味です。

神様はみ使いを用いられます。み使いを通して、啓示を与え、ヨセフの不安を取り除き、なすべき決断へと導いて下さいました。

神様は、神の御心を尋ね求める者の心を知り、導きを決断を与えて下さる方です。

神様は私たちに進むべき道を示して下さる方なのです。

 

み使いは存在しています。み使いは神の僕として、また人に仕えるために創造された霊的な存在です。

ヨセフに神の御心を伝えるためにみ使いは夢を用いられたことが分かります。

み使いは人に何をすべきかを伝えてくださり、

み使いは預言的な言葉を語られます。

 

マリアはすでに新しい命が宿っていることを受け入れていました。

マリアは夫を信頼し、聖霊の御告げを夫に話していました。しかし、ヨセフはマリアの話があまりにもこの世の常識からかけ離れており、また、自分自身はマリアのことばを信じても、周囲の者たちには到底理解できるものではなく、マリアに身の危険が生じる事を危惧し、ヨセフは、マリアをさらし者にしたくはなく、ヨセフはマリアを生かすために、苦渋に満ちた最善の決断をしました。  

 しかし、ヨセフはまだ理性では理解できないこの出来事をいったいどういうことなのかと心に思いめぐらしていた。

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ24節

 

み使いはヨセフに神の御心を告げ、ヨセフはみ使いのお告げを信じ、受け入れました。

ヨセフは決断と行動力のある人でした。

ヨセフのすごいところは、ヨセフにとっては理解のできない状況に陥ってもマリアを責める事はせず、当時の律法に従って、最善の判断をし、『内密に去らせようと決めた』と決めたところにあります。

しかし、神様はヨセフが決めたその夜に、み使いを夢の中に遣わし、神様の御心を告げます。ヨセフは神様の御心を知ると、み使いの命じられたとおりに、

去らせようと決めていた自分の決断は捨てて、神様の命令を素直に受け入れます。

神様は、ヨセフの決断の間違いをただちに修正して下さったのです。

同時に、神様の命令を素直に受け入れ、すぐに決断できるヨセフの行動力は尊敬に値すると思います。

 

私たちの家族にもどのようにしたら良いか分からず、思いめぐらすことがあふれています。

ただ、迷い続けているのではなく、ヨセフのようにその時その時における最善の決断をし、主に委ねて行きたいと思います。イエス様は遠い先まで何をすべきかは示されませんが、目の前において進む道を示し、開いて下さいます。

私たちも間違うことがある。いえ、何が最善の道か分からない。ただ、主に信頼して一歩を歩み始めれば、たとえ間違った決断をしたとしても、神の憐みと全能なる御知恵によって、私たちの思うところをはるかに超えた神の素晴らしいご計画の実現のために、

私たちの道を修正してくだると信じます。

開かれたところにおいて、主に信頼し、信仰をもって前に一歩進む決心してゆきたいと願います。 一歩前に進めば、新たに次の一歩が示されることを信じます。

 

 

国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。イザヤ書2章4節

 

旧約聖書が預言しているイスラエルの国はイエスキリストが王となってもはや戦いの無い平和な国であり、今あるイスラエルは聖書の預言の成就ではありません。

(1948年のイスラエルの建国は聖書の預言の成就ではありません。しかし、政治的イスラエルの建国は預言の成就の始まりではあります。)

 

旧約聖書に預言されているイスラエルの国は人の間違った熱心さで武力によって建て上げるような国ではありません。

神様の熱心さ、誠実さ、真実さによって建てられる国であり、

人が力づくで守らなければ立ち行かないような国ではありません。

エス様の再臨に備えて、人がイスラエルの国を守るのではなく、

エス様の再臨によってはじめてイスラエルの国が始まるのです。

 

旧約聖書に預言されているイスラエルの国が興された時には、

諸国の民もイスラエルを尊敬し、平和な世界が実現します。(ただし、千年間イスラエルの国が続いた後、最後には再び諸国がイスラエルを攻めてくる日が来ます)

 

なぜ、現代のイスラエルの国は武力でパレスチナを攻めるのでしょうか。

一言でいえば、ユダヤ人はイエス様が救い主であることを信じていないからです。

エス様を信じていないので、ユダヤ人は聖書に含まれている新約聖書を信じていません。

わたしが、ここに書いたことは旧約聖書にも預言されていますが、

新約聖書ではイエス様ご自身がイスラエルの民に向かって語っています。

エス様を信じていないのでユダヤ人はイエス様の言われた言葉に耳を傾けられないのです。

 

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。

主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。エゼキエル書34章23、24節

 

ユダヤ人はイエス様を救い主と信じていませんが

ユダヤ人の中でもクリスチャンになった人々は存在しますが)、聖書に預言されているイスラエルではその国民はすべてイエスキリストが救い主であり、自分たちの王であることを知っています。

 

このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。-神である主の御告げー

                          エゼキエル書34章30節

今はパレスチナを始め、イスラム教徒も含め全世界はイエスキリストが彼らの神であることを未だ知りませんが、

聖書に預言されているイスラエルが興る時には、

イスラエル以外のすべての諸国の民もイエスキリストが諸国の民の神であることを知ることになるというのが聖書に記されていることです。

 

民族は民族に、国は国に対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

                        マタイによる福音書24章7,8節

今の時代は未だ産みの苦しみの時代です。

産みの苦しみの時代は、その苦しみを味わう中で、イエス様の再臨が近くなっていることを悟り、主ご自身に会う備えをする期間です。

今はまだ恵みの時、救いの日であり、主の御名を呼び求める者はみな救われる時です。

 

私たちクリスチャンの望みは

エス様が再び雲に乗って空中まで降りて来てくださり、

瞬時に復活の体を着せられてイエス様の御元に引き上げられ、

エス様と婚礼の時を喜び楽しむ時が来ることです。

 

その後、地上に大患難の時代が来ますが、

そのあとにイエス様は地上にまで降りて来られ、王となって戦いの無い平和な御代を

治められます。

その時、今あるイスラエルの地にイエス様は王国を建てられ、

この時、神に選ばれたイスラエルの民はイスラエルの地に集められ一つの国となります。

 

2023.10.15 茅ヶ崎 建徳要旨