礼拝の言い表しと礼拝の豊かさ。
『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。ローマ人への手紙10章9節
というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。Ⅰコリント人への手紙1章4節
礼拝の言い表しとは自らの口で主はどのような御方であるかを告白することです。
週報は、主ご自身の御名をどのように言い表したかの記録です。
み言葉と賛美を通して主の御名を言い表すことを主は喜ばれています。
ただ、数年間以上も前から自らの口で主の御名を言い表すことが消えていることが気にかかっていました。
多くの教会では使徒信条を全員で告白します。使徒信条には、聖書の神をどのように信じ、使徒たちがイエス様をどのように伝えてきたのかという教えが要約され世界のキリスト教会でおよそ1世紀から続けられています。
ここの教会では使徒信条の告白がプログラムとしては礼拝の中に採用されていません。
使徒信条を含め、教会として信仰告白がなされていない教会は怪しい教会です。
教会内に異端が入り込んできた時に、それは違うという根拠を示せないからです。
(もちろん、新生している信者にとっては、御霊により霊においてその教えが神からのものか悪魔からのものかを見分けることはできます。御霊は神に関わるすべてのことを教えて下さるからです。羊は羊飼いの声を聴き分けます。)
もう一つは、共同体としての信仰告白が定まっていなければ、時の伝道者の信仰に影響されてしまうからです。
それは、使徒信条だけでは主の御名を言い表しきれていないからだと思います。
主のお値、主の尊さを言い表すには足りない、もっと自らの口で主ご自身のすばらしさを告白したいという情熱から生まれてきたのではないでしょうか。
例えば、信条にはイエス様は私の良い牧者ですとは告白されていない。イエス様は恵み深い方とも告白されていない。イエス様はいつもともにいて下さるとも告白されていない。しかし、どれも大切な信仰告白です。
イエス様が、どのような良い神であるかの告白が聖書全体にちりばめられています。
わたしたちは教会の信条を前提にしながら、
聖書全体を紐解きながら自らの口で主を告白して神に礼拝を捧げるというスタイルをとっているのです。
使徒信条だけでは言い表しきれないイエス様の御名を言い表すために、一人ひとりが自らの口で主を言い表す自由がこの礼拝に許されているということをぜひ覚えていていたい。
神は、私たちが口で告白するようにご自身を現して下さる方です。
イエス様は私の良い牧者ですと言い表す者にはそのように現れて下さる。
イエス様は私の救い主ですと告白すればイエス様はあなたの魂の救いとなって下さる。
もし、人が主の御名を言い表さないなら神はそのようには現れて下さらない。
礼拝の豊かさとは、教会の民がどれだけ豊かに主の御名を知っているか、主の御名を呼び求めているかに関わってくるものです。
もし、自らの口で主の御名を言い表さないなら、全員で信徒信条を告白することのほうがまだ良いと思います。
自らの口で主がどのような御方であると信じているかを告白することの大切さを覚えていきたい。
2024,1,7 茅ヶ崎礼拝