主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。ルカ1:20

【おしとされた恵み】

私のことばは、その時が来れば実現します。・・・すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。ルカ1:20~64

ルカの1章20節から64節までの間に、10ヶ月の日々が流れています。その間、ザカリヤはおしとなり、エリザベツは5ヶ月引きこもり、さらに3ヶ月間マリアと二人でひっそりと過ごしました。

子供が授かるということは、二人にとってのなによりもの願いであり、天使のことばはとても嬉しいものでしたが、嬉しいがゆえに、逆に、『本当だろうか?もし、そうでなければ余計に失望を重ねてしまう』とザカリヤは信じたいけれど、信じられない自分との葛藤があったと思います。

おしにされたということは、信じることのできなかった罰でしょうか?

おしにされるということは、その間、ただ、人に語らず、神に向かって語るほかありませんでした。
主よ、あなたの語ったことばはほんとですか?ほんとですか?と確かめながら、しかし、彼の弱い心でも
確かに、主の言葉とおり、エリザベツはみごもっているのを見て、信仰が少しずつ高められてゆく。
そんな、期間がザカリヤには必要であったのでしょう。

主のことばの約束を受けているけれど、それが、形に見えるまで、人には話すことができないという主との間のやり取りを皆さんもお持ちでしょうか?
主が語ってくれたこの御言葉はどのようにこの身に実現してゆくのだろうかと心の中で
、見守っているいくつかの願いはありませんか?

おしにされるとは、神様と一対一で向かい合うことのできる恵みの日々が与えられたということです。
主の言葉を心の中で、反芻し、日々の生活に主の言葉が実現してゆくことを見る心が養われ、
一歩一歩を主に委ねる心が養われる。
そして、主の言葉が実現したときに、さらに主をほめたたえる心に変えられてゆく。
『わたしのことばは、その時が来れば必ず実現する』という言葉を信じれるようになるために与えられた豊かな恵みのときです。

私は、ザカリヤのこの態度には共感するところが多くあります。