行いから信じる世界への移行
『しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべて信じる人に与えられ、何の差別もありません』ローマ3章21,22節。
ザカリヤの行いは、『神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。』と記されています。
律法を守ることによって神の国に入ることが出来るとしたら、ザカリヤは正しく行うことについては満点だったのではないでしょうか。
しかし、妻エリザベツが洗礼者ヨハネを宿すために、主がザカリヤに求めたことは信仰でした。
旧約聖書の時代に生きる人物に求められていたのは律法の行いでした。
もちろん、主なる神様は旧約時代の人々にも信仰を求めていましたが、
しかし、パリサイ人を宗教指導者とする神殿律法の世界の中では、信仰の大切さがあいまいなままにされていたのではないでしょうか。
ザカリヤにとって、祭司職として行いの実践については玄人でありました。
私は、洗礼者ヨハネから救い主イエス様の誕生に移行するこの時代に
神様がザカリヤに御言葉への信仰を求めたことは深い意味があったと思います。
『私の言葉を信じなかったからです』とは、逆に神の言葉を信じることの最重要性を私たちに教えています。
救いは、信仰によって来るからです。
たとえ、救い主が目の前に現れたとしても、救い主を信じなかったなら
救いはありません。
救いの根拠が変わったのです。いえ、救いの根拠がどこにあるかが明らかにされたのです。
律法の行いによらず、イエスキリストを信じる信仰によって神の義を得る。
神の言葉と神の約束を信じなかったならば、待ち望んでいた救い主を自分自身の救いとして受け取ることができません。
ザカリヤが神の言葉を信じなかったということは、たとえ、どれだけ神の御前に優れた行いをしていたとしても、実に大きな罪を犯したのです.
神様は御子の誕生と共に信じて生きる世界が開かれたことをザカリヤを通して私たちにお示しになりました。
神の言葉を信じる時、神の言葉は私たちの前に開かれ、神の言葉は力を発揮し、
活き活きと働き始められます。
どれだけ行うかではなく、どれだけ信じていくかという新しい世界が開かれたのです。
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救い主の来られる前触れとして神の言葉を信じることの大切さをザカリヤを通して教えて下さった主イエス様の御名を褒めたたえます。