主を仰ぎ見ることの祝福
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。イザヤ45章22節
1:1節から3節 カナン人に対する勝利。イスラエルが紅海を渡り、40年の荒野での生活ももうすぐ終わるころの出来事です。イスラエルはガデシュの地に着き、まっすぐ北上すれば2週間でカナンの地にはいれるという地点にまできていた。カナン人は強かったが、イスラエルは主に請願を立て、カナンの町々を渡してくれたなら、その町々を聖絶しますと約束し、主はイスラエルに勝利をもたらしました。彼らは、このことにより、大変意気も上がり、約束の地カナンにまであと少しで入ることができると喜んだに違いない。彼らは主がまっすぐにカナンの地に進めるように導かれるものと期待して待っていた。
4節、5節 なぜ彼らは途中で我慢できなくなったか。
ところが、神はイスラエルの民をカナンの地とは全く逆の葦の海の方角へ導かれました。彼らが期待していた約束の地からどんどん離れていくことを知った時、彼らの期待は失望に変わっていきました。彼らの待ち望む目標から再び離れて行ってしまった。ことは、彼らに大いに失望を与え、再び主とモーセを非難する罪に陥ってしまったのではないでしょうか。
全会衆たちは、かつてカデシュにて、カナンの地を探らせたとき、不信仰により神の怒りを買い、「ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせると誓った地に、だれも決して入ることはできない」民14章30節。と神から罰せられた経緯があり、この時も直接カナンの地に入ることは許されなかったのでしょう。
*私たちもあと少しで目標に到達できると思う矢先に、急な進路変更が迫られたり、神様が全く逆の道に導かれ始めたとき、私たちもこの道は本当にあっているのだろうか、このまま進んでいいのであろうかと、再び、荒野という道をあゆまなければならないのかと心が折れてしまいそうになることがある。そのようなときに、私たちの心は、耐えきれなくなってしまう、そして、今まで導いてきた神に文句を言ってしまうことがあるのではないでしょうか。
2 燃える蛇
6節 神に対する不信仰は死をもたらす。
燃える蛇は民にかみつき、民は蛇の毒で死に至った。
主は、彼らのつぶやきを聞いておられた。彼らが主に信頼することをしないために、主とモーセを非難したために、主の怒りが彼らに望み、主が燃える蛇を彼らの間に送り、蛇が民にかみつき、多くの民が蛇にかまれて死んだ。
*この事件が意味することは、信仰生活の途上において、私たちは神に対する不信仰や不従順、不平、不満といった罪を犯してしまいやすい。そのような一見小さく見えるかもしれないがそれらを放置しておくと、やがて蛇の毒のように全身に回り死んでしまう。つまり、生き生きとした信仰を失ってしまい神にとって役立たないものとなってしまう。
3:人の考える解決の道と神様の示す解決の道は異なる。
7節から9節:民は神のさばきに恐れをなし、モーセのところに嘆願にきた。
【民の願い、民の解決方法】
死の原因になった蛇を直接、主が取り去ってくれるように、モーセにお願いした。
【神の願い、解決方法】
燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。であった。神様は、かまれた一人ひとりから蛇の毒を抜き去っていやしたのではなかった。毒が彼らの体の中にあった。しかし、毒が体に回っていても、青銅の蛇を仰ぎ見た者は生き、青銅の蛇を仰ぎ見ることのなかったものは、死んだ。神の指定する救いの方法に従った者は生きたということである。
青銅の蛇は、彼ら一人一人に噛みついた個々の蛇を代表している。
青銅の蛇の上に、自分に噛みついた蛇が掲げられていると見ることを求められた。
見上げた者は、生きることができた。
イエス様はすべての人の罪の身代わりとして十字架につけられた。
青銅の蛇を見上げることを求められたのと同じように、
私たちは、イエス様の上に自分の罪が釘付けられたことを信仰の目によって見る者は新しくいきることができる。
一人苦しみの最中に主を見上げるということは決して安易な道でないかもしれない。しかし、信仰の友がいる。友と共に礼拝において賛美において、祈りにおいて主を見上げることを見失わないようにしたい。
2020.1.12 茅ヶ崎集会メッセージ要旨