主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、 Ⅰコリント1:8

 エス様を個人的に救い主として受け入れていれば、必ず天国に行けます。
 
よく語られるように、コリントの教会には、分派があり、信者間での不倫もあり、社会的な身分による差別があったり、また霊の賜物を誇りあったりするなど、非常に肉肉しい群れであったことと思います。
けれども、イエス様はパウロを通して、この群れの信者一人ひとりの立場は、『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められることのない者として、最後まで堅く保って下さいます』1:8と堅く保たれていることを明らかにしています。
エス様が来られて、イエス様が審判者として立たれるその前で、コリントの信者は
責められず、また、聖徒して堅く保たれているというのです。何という驚きであり、感謝なことでしょうか。
 
その根拠について、
内なる確信
パウロは、6節で明らかにしています。
『それは、キリストのあかしがあなたがたの中で確かになったからで、』
コリント教会の人々は、確かに、肉肉しく、人間関係の問題が多発する教会だったようですが、
一つ確かであったことがあります。それは、皆、心の中に救いの確信を得ていたということです
『キリストのあかしがあなたがたの中で確かになった』というのは、
彼らが、十字架の言葉を聞いた後に、聖霊が豊かに彼らの心に働かれ、
彼ら一人一人がイエス様を個人的に救い主として受け入れていたという事実が確かにあった、というのです。
 
キリストが心の中に住んでいるという確かさ、新しくされているという確かさ、イエス様は確かに生きておられるという内なる確信、イエス様は確かに私の罪を赦して下さった・・表現は違えどもこういったあかしががコリント教会の一人一人にあったのです。
ですから、パウロは、確信をもって、『あなたがたは、主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保たれている』者だと自信をもって勧めたと言えます。
 
外なる真実
『神は、真実であって、その方のお召しによって、・・』1:9とあるとおり、
救いは、私たちの正しさや熱心さや清さや、努力によるのではなく、
はじめからただ、キリストさまの憐れみによって、恵みによって、ありがたく頂くものであるからです。
救いは、私たちの側に確かさがあるのではなく、神の真実さ、
そして、神の側から招いて下さった招きの確かさにあるのです。
 
この御言葉から、私たちがしっかりと学びとることは、
エス様を心の中に救い主として、一端迎え入れたならば、どんな平凡なクリスチャンであろうと、駄目なクリスチャンであろうと、何の差別もなく、イエス様は主の日に責められることなく、迎え入れて下さるということです。
救われた後に、そのクリスチャンの努力によって完成されるのではない。
救われたその日に、すでに救いは完成しているということ。
 
繰り返しますが、こんな私が責められることのない者として主に受け入れられているとは何と驚くべきことでしょうか。こんな素晴らしい主の恵みを今日も喜んで、歩んでいきたいと思います。感謝。