主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』マルコ1章2,3節

2.バプテスマのヨハネ

1章2節から8節

『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』2,3節

 

バプテスマのヨハネはどのような人物であったのでしょうか。

  • 第一に荒野で叫ぶ者の声としてヨハネは生きていました。旧約聖書に預言されていた人物です。バプテスマのヨハネは、旧約聖書の最後の預言者とも言われ、エルサレムに暮らす宗教家たちのように、外面的にだけ宗教儀式を守ればよいというのではなく、心の内側から律法に従うことを説いていました。また人に説くだけでなく、ヨハネ自身がなによりも義に生きることを追い求めて生きていた人物でありました。

義を追い求めない人には、罪は分かりません。本当に義を追求していくとき、義を行うことのできない、不義、つまり罪深さが心の内側に存在することに気がつくのです。

義の行いについては律法に記されていますが、律法に従って生きようとすればするほど、罪がますます心の中に明らかになり、ついには自分自身の罪深さに絶望するのです。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7章24節

義を実現する力が私の内側には全くないことを悟った結果、自分自身の心とは真逆に義を実現して下さる神、また、自分の罪を取り除いて下さる救い主を切望してやまなくなります。バプテスマのヨハネはまさにこのような心境であったのではないでしょうか。

  • 第2にイエス様を指し示した人物です。

ヨハネ1章29節 『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』

しかし、いつまでも自分自身の罪にばかり目を留めていても、解決はありません。罪の問題を解決して下さる方がおられます。見よ、とヨハネは言いました。

私はイエス様を見るということは、信仰生活の中でとても大切なことであると感じています。イエス様が十字架の上に傷だらけの姿で釘つけられているのを心の目ではっきりと見ていく。そのお姿の上に、私の古き人が釘つけられている姿を見つめていく。後にパウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、『十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに』3章1節。と書き記し、まるで絵のように、今で言えば動画でも見るかのようにイエス様の十字架を見ることが、信仰の原点であると言い表していると思います。

エス様は、私たちのすべての罪をその身に背負い、十字架におかかりになり、ご自分の命を罪の代価として支払い、代わりに私たちは神からの赦しを得ることができました。イエス様によって、神様との交わりを隔てるすべての罪の障壁は取り除かれました。私たちは、ヨハネが叫ばれたように、世の罪を取り除く神の子羊であるイエス・キリストを見上げるのです。

  • 第三に、ヨハネは徹底的に自分を誇ることなく、へりくだった態度をとることのできた人物です。

7節私には、かがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません。

主人の履き物のひもを解くのは奴隷のする仕事でした。奴隷でさえ履き物のひもを解くことができるのに、ヨハネは自分にはイエス様に触れることさえもできない者であると告白しました。ヨハネは、自分は罪ある人間に過ぎない。しかし、私のあとから来られるかたは、まことの神であり、罪あるわたしが触れることのできる価値は全くないと言い表したのです。彼は、自分の名誉や地位や富などを増し加えるために生きていたのではなく、

ただ唯一、イエス様が神の子羊であることを証することに生きることを集中し、そしてただイエス様だけを自分の誇りとしていました。

私たちが、神に対して何かをしてあげるということがあるのでしょうか。神様は人の助けを必要としません。かえって、神様は私たちが履き物のひもを解く値打ちもない者にもかかわらず、神様のほうから一方的に近づいて来て下さり、罪を赦して下さるという恵みを与えて下さったのです。 

私たちはどうしてイエス様を信じる者とされたのでしょうか。なにか、私たちに資格があったからでしょうか?

兄弟たち、自分たちの召しのことをよく考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし、神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有る者を無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです』Ⅰコリント1章26から28節。と主は語って下さいます。

私は、ただ罪ゆるされた罪人として語るに過ぎない。神様の戒めを守ろうとしても守ることのできない、罪に汚れたみじめな人間に過ぎない者であり、滅びに至るしかなかった者をあえて選んで下さって、一方的な恩寵により救われた一人の罪人にしか過ぎないというところに自分の身を置くしかないものです。

洗礼者ヨハネの中に証人の姿を教えられます。自分を誇ることなく、ただへりくだってイエス様を指し示すこと、人々の心をイエス様に向けること。そのような自分であり得るか。キリストを証することが心の喜びであるのか、洗礼者ヨハネの姿を見ると、そのように自分も問いただされるのです。

2023.2.26 茅ヶ崎礼拝