主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。詩篇103篇7節

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えて下さい。出エジプト記33章13節
そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようなれるでしょう。33章13節

私は、この度、詩篇103篇を黙想している中で、主はご自身の道をモーセに教え、その御業をイスラエルの子らに知らされたとの御言葉を心にとめ、ご自身の道を知らされること、みわざを知らされることの違いはどこにあるのだろうかと思わされた。

モーセは、出エジプト記33章で、主より『あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せられた。主より、そのような言葉を頂き、モーセは非常に恐れまた自身を恥じたに違いありません。このような自分が主の心にかなっていると仰せられるとは一体、主はどのような御心をお持ちであるかと主を疑うわけではないが、モーセ自身の中で、自分を納得させるような理由を見出せなかったのではないかと思われる。

そこで、モーセ

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えて下さい。と主に祈り求めた。

主はモーセの願いに応えご自身の道を教えられたことを詩篇103篇7節において知ることができる。

道を知ることは旅人においては必至のことではないだろうか。

目的に行くために道を知らずには到底たどり着くことはできない。道を知ってこそ、私たちは一歩一歩進んでいくことができる。

道を知らされるということはその道の先に目的地があるということを同時に期待することが出来るということだ。

道というのは、ただ道中を示すだけではない。道を知ることはその心を知ることに通じる。モーセは主の道を教えられることによって、主の心を知り満足を得た。

 

エス様がご自身の事を『道』と呼ばれた。

エス様ご自身が道の目的地であると共に、目的地に至るための道程であることを示された。

そして、イエス様と共に歩む弟子たちのことを使徒の時代には『この道の者』と呼んだ。

 

モーセはどのような主の道を教えられたのであろうか。

詩篇103篇8節以降に、『主は憐み深く、情け深い。怒るに遅く、恵み豊かである。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。~』と続く。

主がどのような御方であるかがこの詩篇には綴られている。

モーセは実に、主ご自身のご人格を存分に教えられたのだ。

モーセは自分を選んだ主なる神様がどれほど憐み深い、情け深い、恵み豊かな方であるかを教えられた時、この方に全き信頼を置いてついてゆけばよいのだということを悟った。主ご自身の徳を教えられたことがモーセが荒野を乗り越えていくときの原動力になったのだ。

 

それに比べて、イスラエルの子らは主の御業を教えられた。

これはいったいどういうことであったのか。

イスラエルの子らは、

紅海が分かれ、海の真中を通り抜ける神の奇跡を目の当たりにした。

紅海を渡り終えたのち、水に不足するとマラの苦い水が甘い水に代わる神の奇跡を目の当たりにした。さらに、肉が食べたければウズラをいただき、パンが無ければマナを降らしていただいた。しかし、どれだけ、多くの神の奇跡を見ようとも、

困難があるごとに不信仰に陥り、神に信頼しようともせず、偶像礼拝に陥っていた。

なぜだろうか。

どれだけ神の奇跡を見ても、人々の心は神の心を知ろうとはしなかった。

目の前に現れる苦悩を取り去ってもらうことだけを神に求めた。

神は憐み深いお方ゆえに、イスラエルの子らの叫びと願いに応えられたが、

彼らは目の前の苦悩が取り去られれば、すぐに主を忘れてしまっていた。

 

私たちも願わくば、主ご自身の道を教えていただきたいと思う。

困難があるたびに、主の御業によってその困難がただ取り除かれることを願うだけのクリスチャンではなく、

たとえ困難があろうとも、その真中に主の道があり、そしていかなる困難な道であろうと『主は憐み深く、情け深い、怒るにおそく、恵み豊かである』ことを教えらる人生の道であることを願う。モーセは、荒野を進むたびに主ご自身の道、すなわち主の心を教えられますます心低く、主と共に歩む幸いを教えられた。

 

主よ。あなたの道を私に知らせ、

あなたの小道を私に教えて下さい。詩篇25篇4節

 

2021.11.14 茅ヶ崎集会