ほんとは優しかった父。
礼拝讃美歌6番の5節に
『疑い、怖れは 跡なく消え、
御父の御前の 楽しきかな』という歌詞がある。
今日の朝、この賛美を捧げながら改めて教えられた。
放蕩息子は、父に厳しく叱責されるのではないか、
もしかすると許してくれないのではないか
なんと謝ればいいのだろうか、
と不安を抱えながら、恐る恐る父のいる家に戻っていった。
しかし、父は息子の帰りを待ちわび、遠くから彼の戻ってくる姿をいつも探していた。
息子を見つけると嬉しさのあまり父は息子に駆け寄り抱きしめた。
息子は叱られる不安、叱責される恐れでいっぱいだったのに、
そのようなそぶりは父の中になにも見出さず、
愛に溢れる心で抱きしめられ、
次第に彼の恐れの心は溶け去っていった。
父が大きな大きな寛容な心、包容力をもって
自分の過去の過ちをなにも咎め責めることもせず、父が自分を喜んでくれている、受け入れてくれていることを知った時、
彼は父親の傍にいることの楽しみに心が開かれた。父のそばにいられることはなんと楽しいのだろうかと思える幸せ。
ここで我を振り返る。私と息子との関係はどうであろうか。
息子にとって父親の傍にいることは楽しみだろうか。
私は息子や娘がそばにいること、そばでキャッキャと遊んでいる姿を見ていることは一番の楽しみ。だから、子供たちにも父親のそばにいることが居心地のよいものであってほしい。
私は息子に対して過去の過ちや失敗を責め立てる厳しい父親になっていないだろうか。
伝統的に日本人が抱きがちな厳しい父というイメージはほんとに神様が求めている父親のイメージなのであろうか。実は日本文化の中でいつのまにか踏襲されてきている偶像の父のイメージなのではないか。
イエス様が教えてくれた御父のイメージは、放蕩の限りを尽くし父の恥さらしになるような行為をしてきた息子に対して、始めから彼の行いを責めるのではなく、彼が戻ってきてくれることを待ちわびる父、子供がした過ちなど初めから気にも留めず、心から息子を愛する父、息子のために喜んで自分の富を振舞うおおらかな父である。
イエス様が教えてくれたこの父親のイメージを私の模範としよう。自分の中にある厳しい父のイメージを変えるとともに、子供に対してのふるまいもイエス様が教えてくれた父のイメージでのままに関わっていこう。