主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

人間が安息日のために造られたのではありません。マルコ2:27

常に主にとどまっているように。使徒11:23
 
安息日は人間のために設けられたのです。
 
安息日について考えてみましょう。
人のはじめであるアダムとイブは、自分たちが憩うためのエデンの園を自分たちの手で造り上げたのではありませんでした。神様が彼らを憩わせるために、エデンの園を用意されて、そこにアダムを初めに置かれました。
彼らはそこに用意されていた食物をただで食し、幸いな環境を受けることができました。
 
彼らは、自ら努力してエデンの園を保つ必要はありませんでした。エデンの園の管理はまかされましたが、すでにそこには憩い(安息)があったのです。
 
神様が用意して下さっている安息の中に憩うことこそ、
人のなすことであって、人が自ら安息をつくりだすために努力するのではありません。
では、安息を得るためには、どうすればいいのでしょうか?
それは、イエス様に信頼して、じっとしていることです。心を騒がせるのではなく、ただ信じてーいる(居る)ということでしょう。
 
世の中は、何か幸せを得るためには、努力しで働いて賃金を得て、さらにそのお金で幸せを買うものだと教え込まれています。ので、人が一番求めている心の平安・平和・安心なども努力して人が得るものだと思い違いしてしまっています。
 
そうではなくて、イエス様はご自分の犠牲を通して、すでに安息を備えて下さっているのです。
人は、神様が備えて下さった安息にただ入ればよいのであって、安息を造り出す必要はないのです。
 
 放蕩息子も、御父さんに受け入れられようと必死に言い訳を考えていましたが、御父さんはそんな息子の言い訳など聞かず、泥んこまみれの息子を抱きしめて歓迎され、
御父さんの家に用意されていたごちそうを(、もちろん、無償で、)息子に与えました。
ただで受ければ良いというのが、福音です。
 
教会の中で何をするかではなく、教会の中でまず憩うこと、ほっと息をすること、ただ席を温めて礼拝を受けているということが、実は一番大切なのです。何もしないでは申し訳ない、自分には教会にいる資格がないのではないかなどと思う必要はないのです。
 
礼拝においても、神様を喜ばせようと努力するのが讃美ではありません。
主の安息の中で、心の内側から喜びはあふれだしてくるものが讃美です。
エス様からの安息を今日も心の中に受け入れましょう。