主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

何ということをしたのか。           創世記3:13

わたしと父とは一つです。                                     ヨハネ10:30
 
普段から、人を傷つけてはいけないよ、よその子をいじめてはいけないよと、諭していたにも関わらず、自分の愛する息子が、過ちを犯し、人を傷つけてしまうようなことをしまったとしたら、仮に、一時の過ちであったとしても、愛する子が大きな罪の責任をその身に一生背負わない事態となったとしたら、親は何と言うでしょう?
「何ということをしたのか!!」 愛する子が罪の罰のために、死ななければならないとしたら、親は、どれだけ悲しみ、子の身代りになってあげたいと思うことでしょうか。
 
エバが、蛇にそそのかされたとしても、アダムに善悪を知る木の実を与えてしまった行為は、取り返しのつかない過ちとなってしまいました。
神様は、一瞬のうちに、全人類に及ぶ苦難と悲しみの歴史をご覧になったにちがいありません。取り返しのつかないことが、全人類に及んでしまったのです。何ということをしたのか!、罪を負ってしまった人間は、罪の責任を自分の身に負わなければならなくなったのです。このことの重大さをエバもアダムも気が付きも想像もすることができませんでした。
神様の心は、痛恨の極みで張り裂けそうになりました。エバをだました蛇に対しては、はてしもない怒りが沸き起こったことでしょう。けれども、罪を犯した人(アダムとエバ)に対しては、自分たちが犯したの罪の結果として、苦しみの道を歩み、そして罪の責任として、神の公平な裁きのうちに、裁かれなければならない彼らの将来を思っての激しい心の痛みと憐れみの情でいっぱいになったことでしょう。
 
神様は、痛恨の痛みの中で、決断をされました。私が彼らを造ったのだから、彼らの罪の責任は、私自らが背負おう。神とともにおられたキリストを人の姿をとらせて人の世界に送り、人の罪を彼に負わせよう。
 
エスとなったキリストは父なる神様のこの心とひとつでした。イエス様は、父なる神様の深い憐れみの心を知り、ひとつとなっていました。それゆえ、イエス様はただ父なる神様の御心を成し遂げるためだけに、一心にその生涯を進まれました。それは、十字架の上で人の罪を背負うための道でした。
神様は、人を愛しているゆえに、人の罪を人に負わせず、罪の責任をご自分で負うと決心されました。
エス様は、まったく父なる神様の御心を人の姿を通して現されたのです。
エス様は父なる神様そのものです。
父なる神が子なるキリストを見放したのではありません。父なる神が、自分はなにもせず子なるキリストに罪を負わせたのではありません。父なる神が、子なるキリストを罰したのではありません。
父なる神自らが、イエス・キリスト様と一体になって、父なる神自らが、人の罪を負われたのです。
そして、人が本来背負うべき罪の罰を免れさせたのです。
 
 
 
神様の愛は、人を創造されたときも、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べてしまった時もその後も、初めから終わりまで変わらなく続いているのです。
エス様の十字架によって示されている神様の愛は何とすばらしいことでしょうか!
神様は、イエス様の十字架の上で何ということをしてくれたことでしょう。