主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わたしはかがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません。マルコ1章7節

洗礼者ヨハネ。マルコ福音書1章2-8節
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洗礼者ヨハネは、旧約聖書の最後の預言者とも言われ、エルサレムに暮らす宗教家たちのように外面だけ宗教儀式を守ればよいというのではなく、心の内側から律法に従うことを説いていました。

ヨハネ自身がなによりも義に生きることを追い求めていた人物でした。

義を追い求めない人に罪は分かりません。本当に義を追求していくとき、義を行うことのできない、不義、つまり罪深さが心の内側に存在することに気がつき、ついには自分自身の罪深さに絶望するのです。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7章24節。

義を実現する力が私の内側には全くないことを悟った時、自分自身の心とは真逆に義を実現して下さる神、また、自分の罪を取り除いて下さる救い主を切望してやまなくなります。

ヨハネは徹底的にへりくだった態度をとることのできた人物です。7節。奴隷でさえ履き物のひもを解くことができるのに、ヨハネは自分にはイエス様に触れることさえもできない者であると告白しました。

彼は、自分の名誉や地位や富などを増し加えるために生きていたのではなく、ただ唯一、イエス様が神の子羊であることを証することに集中し、そしてただイエス様だけを自分の誇りとしていました。

私たちもそのようにありたいと思わされます。