主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

キリストと共に生きるようになる。テモテへの手紙 二 2章11節

次の言葉は真実です。

『私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。』

テモテへの手紙 二 2章11節(新共同訳)

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

マルコの福音書8章31節(新改訳)

 

エス様の御復活は歴史的事実です。

そしてまた、霊的な真実です。

必ずこのようになります。

エス様が復活なさったことは確かなことで、

決して、十字架の死で終わることはなかったことを世の中に証

しました。

エス様は十字架の上で死なれた後、十字架の上に放置されたのではなく、

弟子たちの手で十字架から降ろされ、埋葬されました。

弟子たちは確かに自分たちの目で、埋葬を見届けました。

エス様の御遺体は完全に葬られたのです。

 

葬る、葬り去ると言えば、永久に私たちの記憶から消し去り、

永遠の決別と私たちは考えます。もう、決して戻っては来ないことを意味します。

 

エス様も、弟子たちの前から完全に葬られたのです。

しかし、

エス様は必ず三日目によみがえらなければならない

と神によって決められていたのでした。

これは必然的な出来事です。

どんなことがあっても、そうでなければならない必然的な

定めです。

エス様にとって死は終わりではありません。

死はよみがえりに至る過程です。

 

弟子たちは、イエス様の御遺体を完全に葬りました。

しかし、イエス様は死んだままで消滅してしまうようなことはなく、

今度は、決して朽ちることの無い永遠の御体を身にまとってよみがえられたのです。

エス様のよみがえりは、葬られる前の身体ではありません。

 

この真理は、キリスト者にも適用されます。

私たちは、キリストと共に死んだのならキリストと共に生きるようになります。

私たちは、私たちの古い罪の性質をキリストとともに葬り去ります。

自分ではもう手の届かないところに置きます。

死人を幾度も墓の中から掘り起こすようなことはしません。

死んだのなら完全に諦めます。

葬り去るとは完全に諦めることです。

 

もし、人が自分の罪の性質をキリストと関わりなく葬り去ろうとしても、

幾度も現れてきて、自分を悩まし続けます。

自分の力で罪の性質を葬り去ろうとしても決して葬ることはできないからです。

人は新生すると、罪を自覚し、それがやっかいものであることを知り、なんとか消し去ろうと努力します。しかし、その努力は決して実を結びません。人は自分の努力によって罪の性質、肉の力を消し去ることはできないからです。

 

肉の力を消し去る唯一の方法は、イエス様と共に死ぬことです。

エス様と共に死に墓に葬ってしまうことです。

私のこの肉の力、性質はイエス様と共に十字架につけられそして葬られたとそのように信じればよいのです。

死んだのなら、わたしから手放されました。死んだのならもう自分を悩ますことはありません。死人は、もうしゃべらないからです。

埋葬し、墓の中に放置しまままにしておきましょう。

幾度も墓の中から死人を掘り出すことはやめましょう。

私たちのなすことはここまでです。

 

しかし、神の働きはここで終わりません。

神はキリストを必ずよみがえらせると定めておられるからです。

 

神はキリストを三日の後、必ず死人の内より全知全能の御力をもってよみがえらせます。

キリストと共に死んだのなら、どんな困難があっても必ず、キリストと共によみがえります。

 

 

私たちもキリストと共に死んだのなら、キリストと共によみがえります。

 

古い肉の性質は葬りされれましたので、古い性質がまた現れることはありません。

よみがえった後は、人の手によらない、人の肉の性質によらない、全く新しい御霊の性質が現れます。

いのちの御霊の原理による新しい人が私を包み込むのです。

神がよみがえらしてくださることを信じて三日間静かに待ちたいと思います。