主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

人々はその教えに驚いた。マルコ1章22節

エス様の権威を学ぶ
 
 
私たちは、マルコによる福音書から信仰生活について学んでいます。
1章の前半から、
・人は修行や努力によっては救われないこと
・イエス様を信じて、バプテスマを受けること
聖霊バプテスマこそ真のバプテスマであること
・クリスチャンには誘惑が襲ってくるが、すでにイエス様が誘惑に打ち勝っていること
・イエス様を信じたのちに大切なことは、
・イエス様を主人として、イエス様についてく決心をすること
・イエス様についていくとき、自分の偶像を手放さなければならないことを学びました。
 
今日は、イエス様の言葉の権威について学びます。
信仰生活を持続していくのに必要なことは、当時と同じように、私たちも定期的に会堂にあつまり、イエス様の言葉を聞くことです。そして、イエス様の権威ある言葉を聞くことです。
初めてイエス様を信じ、洗礼を受けると聖霊が心の中に臨みます。聖霊を受け入れる喜びは、私たちの死んでいた霊がよみがえり、永遠の命とつながる経験をするわけですから、非常に喜びに満ち、今まで経験したことのない喜びを体験するために、この喜びはそのまま一生続くのではないかと思ってしまうほどです。
しかし、その喜びに浸っていられるのは、3年から5年間くらいではないでしょうか。
はじめのころは時間も忘れて喜んで奉仕をしていた若者が3,5年くらいたつと疲れてきてしまい、なにか、油切れのようになり、いつのかにか奉仕がおっくうになり、教会からも遠ざかり、世の流れに巻き込まれているうちにかつてのような肉の生活に紛れ込んでしまうことはあるのではないかと思います。
このようなみじめな信仰生活を回避するためにも、
クリスチャンになったら、会堂に集まりみなと一緒にイエス様の言葉を聞くことを習慣つけておく必要があります。
 
 
人々は、イエス様が会堂で語られた教えの数々を驚きの心をもって聞かれました。それは、イエス様の言葉には、権威があり、それは律法学者たちのもつ宗教的な権威ではなく、神の言葉としての権威を持っていたからです。
 
マルコによる福音書ではイエス様がどのような話をされたかは記されていませんが、
マタイによる福音書を見れば、イエス様が語られたのは山上の垂訓の内容であったことがわかります。(マタイ5章‐7章)
 山上の垂訓のはじめの至福の教えについてだけ触れてみます。
心の貧しい者
悲しむ者
柔和な者
義に飢え渇くもの
あわれみ深い者
心のきよい者
平和をつくる者
義のために迫害される者
は、幸いです。とあります。
いったいこのような幸いな者がいるでしょうか?いったい誰がこのような幸いを受け継ぐのでしょうか?
私たちにできるのかどうかを問う前に、この8つの者はイエス様のご人格そのものを現していることに気が付きます。
エス様こそ、心の貧しく、悲しみを知り、柔和で、義に飢え渇き、、あわれみ深く、心がきよく、平和をつくりだし、そして、義ゆえに十字架につけられるほどの迫害を受けられました。
エス様はご自分が語られた通りに生きられました。
エス様は、神の国の民の価値観を語る前に、ご自身がそのように完全に生きられた方として、ご自身を現しました。イエス様は、ご自分のことを語られたからこそ、真実があり、力があり、人々の心を動かすことができました。
 
権威(けんい、英語: authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。(ウィキペディアより)