【弟子という言葉】
私はその罪人のかしらです。テモテⅠⅠ:15
以前、合気道の道場で1,2年内弟子として修行をさせていただいたことがあった。
師の身近なところで、業だけでなく、精神的な面も含めて学びたいと思ったからだ。
武道に限らず、道の世界では、内弟子というと師のそばにいることもあって、
自分もまた他人から見ても何か偉くなってしまうところがある。
この世においては、そういうものなのだと思う。
師の身近なところで、業だけでなく、精神的な面も含めて学びたいと思ったからだ。
武道に限らず、道の世界では、内弟子というと師のそばにいることもあって、
自分もまた他人から見ても何か偉くなってしまうところがある。
この世においては、そういうものなのだと思う。
その師にイエス様の真弟子になりなさいと勧められた。
私は、弟子という言葉より、僕という言葉のほうがしっくりとなじむ。
主の弟子になるということは、キリスト者として歩むということと捉えてよいと思うが、
それは、決して、偉くなることではない。
むしろ、フェニキアの女のように、子犬のように自分を卑下されても、
私は、そういうものですと自ら告白して否まない、そんな風に低くされることだ。
主の弟子になるということは、キリスト者として歩むということと捉えてよいと思うが、
それは、決して、偉くなることではない。
むしろ、フェニキアの女のように、子犬のように自分を卑下されても、
私は、そういうものですと自ら告白して否まない、そんな風に低くされることだ。
主の僕として、いつも、主の前にひれ伏し、主の言われることを為し、
ただ主の家においていただけることに感謝をして過ごせれば、十分である。
ただ主の家においていただけることに感謝をして過ごせれば、十分である。