主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

この人たち以上に、わたしを愛しますか。ヨハネ21章15節

ヨハネによる福音書21章15節から17節
主を見失ってしまったペテロの信仰の回復の道筋

【復活の恵み-4】エス様が復活して今も生きていらっしゃるという事実は、信じる私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。それは、信じる私たちに、人生をもう一度やり直すチャンスが与えられている。主は、再び新しく人生を歩みだす勇気を与えてくださるのです。

ペテロは、イエス様のことを3度も知らないと拒んでしまい、彼は、己の犯した過ちのために、主を見失ってしまいました。主イエス様はペテロを見失うことはありませんでしたが、ペテロは主を見失ってしまい、これから先どのように歩んでいったらよいか、分からなくなっていました。
そんなペテロに復活された主は近づいて下さり、再び声をかけてくださいました。

私たちも、主を見失ってしまうことがあります。それは、知らずに、もしくは故意に主を裏切ってしまう、主を知らないと言ってしまった時です。その経験は、ささいな場合もあるでしょうし、また一方で自分にとっては、大変大きな場合であることもあるでしょう。私は、愛する主に対して、罪を犯してしまった、と、主を愛しているがゆえに、己の愚かさに胸を打ちながら嘆いてしまうこともあることでしょう。

しかし、主は私たちを裏切ることは無く、主は、私たちを見失ってはいません。

今日の聖書の物語は、ペテロがどのように再び主の弟子として回復することができたのか。また、
どのようにして新しい一歩を踏み出すことができたのかを教えてくださっています。
私たちもペテロと同じように再び主と共に歩むことが許されているのです。

エス様は、ペテロに、この人たち以上に私を愛するかと尋ねました。
この質問は、もとはと言えば、ペテロが以前『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』(マルコ14:29)で言った言葉を主が返されたように思えます。
エス様のこの質問はペテロの心を深くえぐる、彼の痛みをまっすぐに刺すような言葉でもあったと思います。
エス様は、何を意図されたかと言いますと、それは、罪の赦しの前提の中で、ペテロに自分のしてしまった過ちに真正面から向かい合わせたということではないでしょうか。
エス様は、このとき、すでに十字架において罪の贖いの御業を成就され、死に打ち勝ってご復活されていました。
つまり、ペテロをはじめ、すべての人の罪の赦しは完成していました。

ペテロは、主の赦しの御腕の中で、安心して、己の罪に向かい合うことができたのです。
主の質問を聴いたとき、彼は、おのれが如何に傲慢であったか、周囲の弟子たちを見下していたことか、また、熱心であったと思っていた自分の熱心は、肉によるものであったことか、彼は、やっと自分の無知と愚かさに気が付くことができ、主の前にひれ伏す心をいただけたのです。
ペテロは、心が砕かれて主のみ前にひれ伏した時、彼の心は再び主とつながることができました。

もう一つ、大切なことを主は為さいました。それは、ペテロに主の弟子としての召命を再び与えたということです。
主に罪を犯し、主を見失ってしまっているクリスチャンの大きな悲しみは、これは、主をすでに信じている者の特有な悲しみではありますが、『私はもう主にとって役立たない者になってしまった』という悲しみです。
主に用いられたいと大きな夢をもって主に従っていた者が、主から離れてしまったとき、そこにある悲しみは、ただ離れているということだけでなく、主の召命を共に見失ってしまったことにあります。
エス様は、ペテロのこのような心をよくご存じであり、他の人々のように、ただ家族の元に帰りなさいとか、もう罪を犯さないように、と言葉をかけるだけでなく、
『わたしの羊を飼いなさい』と大切な召命を再びペテロに与えられました。ペテロは、召命を与えられて、つまり再び主の弟子としての使命を自覚させられて、立ち上がることができたのです。
たとえ主を見失ったとしても、再び主と共に歩めるようにと配慮して下さる主はなんと憐み深いお方でしょうか。

主の弟子たち私たちも、主のもとに再び立ち返りましょう。主の御声をもう一度聴くために主にみ前にひれ伏しましょう。主は、あなたを見捨てず、あなたを見放さない。主はあなたを見失わない。
主の前に、正直に、自分を開き、そして、新しい主の召しの言葉を受けて歩き出しましょう。
2016,5,22 茅ヶ崎集会