主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

罪人の友であるイエス・キリスト

罪人の友であるイエス・キリスト
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マタイ9:13
なぜ私たちはイエス様に近づくことができるのでしょうか?
「キリストは神の御姿であられる方なのに神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2:67
私たちはここで、父なる神様に近づくこととイエス様に近づくことを混乱してはいけません。父なる神様は、だれも見たことのない御方であります。そして、義なる御方であり、聖なる御方であり、罪ある人間は誰一人として、神様を見ることはできませんし、罪ある人間は神様の聖の前に、決して近づくことはできません。(Ⅰテモテ6:16
しかし、イエス様は神様が人の姿を取られた御方なので、人であるゆえに、人は誰でも近づくことができるのです。汚れていて、不道徳で、不義にまみれて、到底神に近づきようもない私たちが、驚くことに、ありのままの姿で、つまり、汚れていて、情欲にまみれて、不義にまみれているままの私たちがそのまま近づくことができるのです。
私たちは今、信仰によってイエス様に近づくことができます。
問題は、罪を犯すとサタンが良心を責めたてて、失望に至らせ、
     私はもうイエス様の元に立ち返る資格がないのではないか?
     私はもうイエス様に見捨てられてしまったのではないか?
     私をもうイエス様に赦されないのではないか?
と疑いと不安を心に吹き込んで、信仰を失わせて
エス様に立ち返ることを妨げようとすることです。
しかし、イエス様が罪人の友であることを深く知って、どんなに罪に汚れてしまったとしても、
主を信頼して、主の元へいくべきなのです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらなのです。」Ⅰテモテ1:15
 
2011.9.11 礼拝メッセージ要旨