主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主なる神は女に向かって言われました。『何ということをしたのか』創世記3:13

何ということをしたのか


このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。ロマ5:12
エバが、たとえ蛇にだまされたとしても、アダムに善悪を知る木の実を与えてしまった行為は、永遠の命を失ってしまうという取り返しのつかない過ちとなってしまいました。彼らは自分たちが何をしでかしたのか事の重大さに気が付きもしませんでした。しかし神様は、一瞬のうちに、全人類に及ぶ苦難と悲しみの歴史をご覧になりました。
『何ということをしたのか。』エバに対する神様の深い嘆きの声が聞こえてきます。罪を犯した人は、罪の結果として苦しみの道を歩み、そして罪の責任として、神の公平な裁きのうちに、滅びなければならない。彼らの将来を思って激しく心は痛み、憐れみの情でいっぱいになったことでしょう。一方、エバをだました蛇に対しては『何ということをしたのか』と激しい怒りを覚え、すぐさま呪いを宣言されました。なぜなら神は、神に従う自由意思を人に与えてエデンの園を任されましたが、蛇は狡猾な悪知恵でその自由意志を逆手にとり、神に背かせたからです。 
 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。ロマ3:25
このとき、神様は一つの大きな決断をされました。『私が彼らを造ったのだから、彼らの罪の責任は、私自らが背負おう。私の言であるキリストに人の姿をとらせて世に送り、人の罪を彼に負わせよう』。と。
 エスとなったキリストは父なる神様の深い憐れみの心と一つとなっていました。それゆえ、イエス様はただ父なる神様の御心を成し遂げるためだけに、一心にその生涯を歩まれました。それは、十字架の上で人の罪を背負うための道でした。
わたしと父は一つである。ヨハネ10:30
エス様は父なる神様そのものです。イエス様が父なる神と一体であるように、父なる神もイエス様と一体でした。
父なる神が、自身は犠牲を払わずに子なるキリストを罰したのではありません。父なる神自らが、人の姿をとり、人の罪を負われたのです。それは神ご自身が人として痛みを負うということでした。そして、人には本来背負うべき罪の罰を免れさせたのです。
   ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。ロマ11:33
 『何ということをしたのか』という神の嘆きから始まった人の罪の歴史も、イエス様の十字架を見上げるとき、何という素晴らしいことをして下さったのかという感嘆の声に変わります。失敗をして落ち込むことがあっても、自分に失望するときがあっても、主イエス様の十字架を見上げ、嘆きを喜びに変えて下さる神に感謝し、新しい一日を歩みたいと思います。
茅ヶ崎集会2018.2.18