エリシャをからかった子供たちは、森の中から出てきた2頭の雌熊にかき裂かれてしまいました。
エリシャがはげ頭であったとは、見かけはしょぼくれた風貌であったのかもしれません。
エリシャの激しい気性も伺われます。
しかし、見てくれによって、神の人を馬鹿にしてはいけないことを学びます。
その真剣さは、私たちの想像以上のものであったと思われます。
旧約時代の信仰に生きる生き方は、厳しさを感じます。哀れみがない、さばきと直結してしまう怖さ。
それにくらべて、新約の時代は、ありがたいことにイエス様という神様と人をとりなしてくださる仲介者がいらっしゃることです。神様と人との緩衝材といいますか、クッションとなってくださっているので、私たちのおろかさ(神様に不敬な行為、言葉を発してしまうことなど)をイエス様の十字架の犠牲に免じていつも赦していただいていることは、感謝しきれない恵みです。
今の私たちが、イエス様抜きに神様に仕えようとするならば、一体だれが直接仕えることができましょうか?私たちの罪深い・おろかさゆえに、一人も仕えることのできる者はいないでしょう。
私たちが、今の時代、神様に仕えることができるのもイエス様の十字架のあがないの恵みがあるからこそです。