主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼をからかって、『上って来い、はげ頭。』 Ⅱ列王記2:23

エリシャをからかった子供たちは、森の中から出てきた2頭の雌熊にかき裂かれてしまいました。
 
エリシャがはげ頭であったとは、見かけはしょぼくれた風貌であったのかもしれません。
エリシャの激しい気性も伺われます。
しかし、見てくれによって、神の人を馬鹿にしてはいけないことを学びます。
旧約聖書に登場する本物の預言者は、命がけで神に従い、神の霊を受けて生かされていたことを学びます。
その真剣さは、私たちの想像以上のものであったと思われます。
旧約時代の信仰に生きる生き方は、厳しさを感じます。哀れみがない、さばきと直結してしまう怖さ。
それにくらべて、新約の時代は、ありがたいことにイエス様という神様と人をとりなしてくださる仲介者がいらっしゃることです。神様と人との緩衝材といいますか、クッションとなってくださっているので、私たちのおろかさ(神様に不敬な行為、言葉を発してしまうことなど)をイエス様の十字架の犠牲に免じていつも赦していただいていることは、感謝しきれない恵みです。
今の私たちが、イエス様抜きに神様に仕えようとするならば、一体だれが直接仕えることができましょうか?私たちの罪深い・おろかさゆえに、一人も仕えることのできる者はいないでしょう。
私たちが、今の時代、神様に仕えることができるのもイエス様の十字架のあがないの恵みがあるからこそです。