主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

すると、すぐ、彼らは網を捨て置いて従った。マルコ1:18

エス様についていくということは、神に仕えるということです。
エス様は山上の垂訓の中で、神と富に兼ね仕えることはできないと言われました。
エス様に自分の人生を捧げていくことの積み重ねがクリスチャン生活です。
 
ペテロたちが、イエス様に従う決心をしたのちに、彼らの生活の手段であった漁の網を手放しました。
ペテロたちにとって、網こそが、生活であり、いのちでした。生活を支えていくことだけが生きる目的であり、
神に従う、神に仕えるなどという世界は全く無縁だと考えていました。
ところが、イエス様に声をかけられ、私についてきなさいと言われてから、
ペテロたちは人生には尊い生きる目的があることを教えられました。
神を信じ、神を知り、神に仕えていくことこそ、人に本来与えられている神からの使命であることを悟りました。
生活は神に仕える手段であり、目的ではないことを悟りました。
 
エス様に出会っていない人が、今日の聖書の御言葉を聞くと、網を捨てることなどできない、何もかも捨ててイエス様に従うことなど到底自分にはできないとイエス様に従うことをあきらめてしまうかもしれません。
しかし、実際にイエス様に出会い、イエス様に声をかけられてみれば、あまりにもイエス様に出会った価値が計り知れないので、生活の手段である網を捨てるということがなんでもないことのようになるのです。
今まで、音楽が自分の人生、学識が自分の人生、名誉が自分の人生などと思っていた者が、音楽を、学識を名誉を主にお捧げしますと喜んで告白できるように創り換えられるのです。
 
中途半端に自分の手の中に、網を握りしめていてはいけません。自分自身を手放す。自分の生活を主に放棄する。
毎日毎日新しく、自分自身を主に捧げ、握りしめた網を手放し、主に用いていただけるようにと願って歩んでいくのがクリスチャンの生き方です。