主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

クリスチャンは信仰によって生きる。

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。ローマ人への手紙1章17節

義人とはだれでしょうか?義人とは、神様に義と認められる人ですが。
『義人はいない、ひとりもいない』ローマ3:10のですから、生来の人の中に義人は一人もいません。
しかし、信仰によって、イエスキリストを信じる人は、皆、神の恵みによって、義人と認められます。
神様に義人と認められた人々、すなわち、イエス様を信じる人々のことをクリスチャンと呼びます。
 
では、クリスチャンはどう生きるのでしょうか?『義人は信仰によって生きる』とあります。つまり、イエス様を信じた結果、義と認められた人は、信仰によって生きるものだと言っています。
つまり、クリスチャンになったら、聖書の言葉をよく思索するようになるとか、理性を働かせるとか、御言葉を悟るように黙想するとかではありません。
教会とは何か、救いとは何か、集会とはなにか、聖さんとは何か?などと議論するように生きよとは勧めていません。
クリスチャンとは、イエス様を信じて生きていく人々のことです。クリスチャンは、聖書の言葉を神の言葉と信じて、生活に適用しながら生きていく人々です。
 
もちろん、理性や悟性や感性を無視しろということではありません。これらの能力は、世を知るためには必要なことです。しかし、神を知るための能力は、信仰のみです。それは、神様が信じるという方法を用意されたからです。
 
世の人々は、信じるという世界を行動の中心にはおいていません。やはり、理解すること、感じること、または情に従うこと、欲望に従うこと、悟ることなどに頼ります。
しかし、クリスチャンとは、信仰によって生きる人々なのです。神を信じて生きる、ことを生活の土台に据えた人々なのです。
 
信じた後に、神学的な議論やキリスト教思想に巻き込まれて、イエス様から離れているクリスチャン、また教会の群れが多くあります。いつまで議論しても答えが出ません。
 
また、クリスチャンは何をすべきかと行いに巻き込まれてしまっているクリスチャンも大勢います。
しかし、聖書は、義人は信仰によって生きると言っています。信じるという方法によって、神様はいつもご自身の世界を私たちに開いて下さいます。それ以外にありません。