主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエス様に出会った人々、バプテスマのヨハネ

エス様に出会った人々 1 バプテスマのヨハネ
 
ヨハネ119節から34
 
 
1:バプテスマのヨハネに見られる特徴
見える人には見える、見えない人には見えない。
  律法に徹底的に生き抜く先でキリストに出会えた人物
  聖霊がとどまることを見ることにより、キリストを見分けた人物
 
23
第一に荒野に叫ぶ者の声として彼は生きていました。彼は、旧約聖書の最後の預言者とも言われ、律法にしたがって正しく生きることを説いていました。イスラエルに暮らす宗教家たちのように、外面的にだけ宗教儀式を守ればよいというのではなく、心の内側から律法に従うことを説いていました。
人に説くだけではなく、ヨハネ自身も正義に生きることを追い求めて生きていた人物でありました。
本当に義を追求していく時、義と全く反対の不義が自分の心の中にあることに気がつきます。義を行うことのできない、不義、つまり罪深さが心の内側に存在することに気がつくのです。義を追い求めない人には、罪は分かりません。律法に従って生きようとすればするほど、義を追求すればするほど、罪がますます心の中に明らかになっていくのです。そうして、自分自身の罪深さに絶望するのです。ローマ710節。
しかし、いつまでも自分自身の罪にばかり目を留めて居ても、解決はありません。罪の問題を解決して下さる方がおられます。この方に目を向けることです。『見よ。とヨハネは言いました。世の罪を取り除く神の子羊であるイエス・キリストを見上げるのです。
徹底的に正義を求めた者こそ、己の罪を知り、それゆえ、真逆に正義を実現して下さる神、また、自分の罪を取り除いて下さる救い主を切望してやまなくなります。ヨハネは、まさにこのような心境であったのではないでしょうか。
 
今年のNHKの大河ドラマ八重の桜を私は、興味深く見ました。いろいろ教えられましたが、八重の兄の山本かくまという人物が、明治維新後、宣教師の影響もうけてクリスチャンになりました。彼は、クリスチャンになる前から義に生きる人として描かれていました。平和を追い求め、戊申戦争で会津藩が戦いに巻き込まれことをなんとか食い止めようとした人物です。後に、新島襄が建学した同志社大学の代理の学長になり、日清戦争が起こる前に、戦争を留められない人の罪深さを嘆き、ミカ書43節『彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない』との聖句をドラマの中で話していたことが印象的でした。
今、日本の中に、義に生きようとしている方はどれほどいらっしゃるのでしょうか。
今も、社会の正義を求め、自分の心に義を追い求めることは決して悪いことではありません。むしろ神様がよろこばれることです。しかし、聖書が言っているように、義を追求すればするほど、不義が明らかになり、自分自身に絶望する時が来ます。しかし、そこで、絶望に終わってはいけないのです。心の不義を洗い清めて下さる方がおられるのです。どんな罪もどんな汚れも清めることできる方がおられるのです。私たち教会は、イエス様を信じればこの絶望から喜びに変わることができるという福音を伝えているのです。
 
27
第二に徹底的に自分を誇ることなく、へりくだった態度をとることの出来た人物であります。
『くつひもを解く』のは、奴隷のする仕事でした。奴隷でさえ、くつひもを解くことができるのに、ヨハネは自分はイエス様に触れることさえもないものであると告白しました。ヨハネは、自分は罪ある人間に過ぎない。しかし、私のあとから来られる方は、まことの神であり、罪あるわたしが触れることのできる価値はないと告白したのです。
私たちが、神に対して何かをしてあげるということがあるのでしょうか?
神様は、人の助けを必要としません。かえって、神様は、私たちがくつひもをとく値打ちのないものにもかかわらず、神様から一方的に近づいてきて下さり、罪を赦して下さるという恵みを与えて下さったのです。
彼は、有名になること、偉くなること、人々に褒められることのなにものも望みませんでした。彼は、自分に名誉や地位や富などを増し加えるために生きていたのではなく、ただ救い主を証するために生きていたのです。
彼は、ただ唯一、イエス様が神の子羊であることを証することに集中したことでした。そして、ただイエス様だけを自分の誇りとしていました。
私も自分はいったいなぜにイエス様の福音を伝えているのだろうかと自問させられることがよくあります。
いったい誰から頼まれてか、いったいどんな資格があるというのか、・・自分はどこに『立っているのだろうか』と自問します。すると、
Ⅰコリント126
『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高いものも多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取る足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです・・・』
私は、ただ罪ゆるされた罪人として語るに過ぎない。神様の戒めを守ろうとしても守ることもできない、罪に汚れたみじめな人間に過ぎない者を、滅びに至るしかなかった者をあえて選んで下さって、一方的な恩寵により
救われた一人の罪人にしか過ぎないという所に、自分の身を置くしかないものです。
 
ここに、証人の姿を教えられます。いいえ、これは、聖霊に満たされたクリスチャンの姿とも言えます。それは、自分を誇ることなく、ただへりくだってイエス様を指し示すこと、人々の心をイエス様に向けること、
そのような自分であり得るか、キリストを証することが心の喜びであるのか洗礼者ヨハネの姿を見ると、そのように問いただされるのです。
 
30
第三に、ヨハネはイエス様の上に聖霊がとどまることを見ることのできた人物であります。
イスラエルの人々に、イエス様が神の子羊であることを公に宣言した人物です。
洗礼を受けに来る人々の中に、必ず救い主となる御方がやってくるということを信じて、日々、その方はどなたであろうかと待ち望んでいた人物であるということです。
ここに、興味深い御言葉があります。31節『私もこの方を知りませんでした』
エス様はヨハネに自己紹介をしたわけではありません。
エス様は、一人の民としてヨハネから洗礼を受ける為に進み出たのです。
ヨハネが何千人もの人々の中で、メシアを見分ける唯一の神に示された方法は、『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたら、その方こそ』という方法でした。聖書には不思議なことが沢山記されていますが、このヨハネ聖霊のとどまるのが見えたということもまた不思議なことです。
ヨハネは、ただ唯一、聖霊が下りとどまる方を注意深く探していたということです。
 
これは、わたしたちにとってどんなことを教えるのでしょうか?それは、聖霊に対する感受性を磨くということではないでしょうか。日々の奉仕において、大切なことは、聖霊がどのようにのぞまられているか、働かれているかということに敏感になるということ。
聖霊の働きに敏感になると、日々の様々な出来事の中にイエス様の助けを見ることができます。
あ、このことは、主がなされたなと気が付き、イエス様に感謝をし、イエス様、あなたは素晴らしい方ですねとイエス様を賛美し、時に、イエス様、私汚れた者です、わたしから離れて下さいと、自分の罪深さにおののき、
エス様にひれ伏すこともあるでしょう。ヨハネのように『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』と主をほめたたえるものとなることでしょう。
2:最後に洗礼者ヨハネはイエス様をどのような御方として見たのでしょうか?
29
1:世の罪を取り除く、神の子羊なる方。エス様は、私たちのすべての罪をその身に背負い、十字架におかかりになり、ご自分の命の代価を支払い、代わりに私たちは神からの赦し得ることができました。もはや、イエス様によって、神様との交わりを隔てるすべての罪は取り除かれました。私たちは、ただこの方によって、すべての罪が赦され、神様との交わりが回復し、永遠の命が与えられて、神の子供となる特権が与えられました。私たちは、ヨハネが言うように、ただ、この方を見上げればよいのです。
33
2:イエス様の上に聖霊がとどまる。エス様は、神の御子です。単なる偉大な人物ではなく、単なる宗教家でもなく、神の霊を宿す、人となられた神ご自身であります。
33
3:聖霊によってバプテスマを授ける御方である。
エス様こそ、私たちに永遠の命を与えられる御方です。イエス様は、私たちに生きる力を与えて下さるかたです。イエス様を信じる時、私たちのうちには、聖霊が与えられ神の子供としての保障が与えられるのです。イエス様を信じる時、永遠の命が与えられ、私たちの名は天に記され、私たちの国籍は、天に置かれるのです。
むすび。ヨハネは、義を追い求めていきることを通して、救い主でであうことができた人物です。
マタイ56『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです』とあります。義に飢え渇く者を主はご存知であり、主はその者の心を義であるキリストに満たして下さるのです。
祈り)主よ、無きに等しい者をあえて選んで下さり、今日も豊かな御恵みを与えて下さていることを感謝致します。荒野で叫ぶものの声をとしてこれからもお導き下さい。尊き救い主イエス・キリストのお名前を通して、父なる神様の御前にお祈り致します。アーメン。
 
礼拝メッセージ要旨2013.12.30