主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。Ⅱサムエル22:17

洗礼への決心となった出来事。
 
今日の御言葉は、私が23歳の時に洗礼を受けたいとはっきりと心に決心を促した出来事を端的に現している御言葉です。
大学時代から定期的に教会に通い始め、聖書の通読の習慣を持つようになっていました。夜中過ぎまで研究室での実験に明け暮れ、研究室の片隅に簡易ベッドを広げて、休息をとり、また朝早くから実験に取り掛かる毎日でした。そんな忙しい中でも、夜寝る前には、どこかでもらったギデオンの聖書を1章ずつ読み、心の平安を得ていました。御言葉は私の心の支えでしたが、イエス様を私の魂の個人的な救い主とは知りませんでした。
私は、聖書を熱心に読み、また研究(大したものではありませんでしたが)にいそしみつつ、学問の真理の探究では私の魂は満たされず、また卒業後どんな仕事に就くかを思いめぐらしましたが、試行錯誤しましたが、やはり職業においても私の魂は満たされず、私の魂は身の置き場を求めてなおさまよい続けていました。
当時は、ニューエイジムーブメントもはやっていて、ーオウム真理教も全盛期でしたー、私の魂は、真理の御霊と偽りの霊を十分に見分けることもできず、悪霊の激しいいざないにも遭っていました。
 
私は、結局大学の研究室に残らず、社会に出て社会人としての経験を積むことのほうが大切ではないかと考えて、職業につきましたが、そこは、当然ですが、学生時代の研究室みたいに自由気ままにやりたいことばかりをしているわけではなく、世間体と名誉と各人のプライドとこの世との打算と情欲がうずまいている世界でした。
私は、もともと世間知らずに育ってきていたので、世間というものに、とてつもないカルチャーショックを受け、
真理に飢え渇いていた魂は、さらに激しく魂の置きどころを慕い喘ぐようになりました。-これらの環境も主が用意されたことは後で知ることとなりましたー当時は、身もだえするほどに、嘆き苦しんだことを覚えています。
 
私は、魂に平安を与える天の御国があることを聖書から教えられており、天の御国に到達することを求めていましたが、どのようにして天の御国に入ることができるか、その入り口を見つけられずに苦しんでいたのです。
旧約聖書の人々のように、ただ天の御国を待ち望んでいましたが、新約聖書の人々のように、天の御国を心の中に得てはいなかったのです。
 
そのような天の御国を慕い求める苦しみの中で、私はもう職場の環境に適応できず、退職することばかりを考えるようになっていました。精神的も相当追い詰められていました。職場の上司も私にとっては意地悪過ぎました。
そのようなある日の夜、私は、夢を見ました。
それは、私の体が深い海の底に沈んでいく夢でした。私は、海の表面に出てゆく道を見つけることが出来ずに、
ついに力尽きて、海の底に自分の体がゆっくりと沈んでいくこと、おぼれ死んでい行く姿を見ました。
もはや、息もなく、力も抜け、ただ闇の中に沈んでいくその時に、私の腕をしっかりとつかんで、海の外に引き上げて下さった方を見たのです。私はその力強い御手により、海の上に引き上げられ、息をすることができました。
私は、自分が闇の中に葬りさられることなく、助かったことを知りました。
その時、海の暗闇の中でおぼれていた私を引き上げて下さった方こそ、ペテロを嵐の海の中から引き上げて下さったイエス様であることを知りました。
 
私は、ペテロを引き上げて下さったイエス様が、私をも引き上げて下さったことを知った時、
この方が、私の個人の救い主であったことをはっきりと悟ったのです。
私は、この聖書に書いてあるイエス様が私の個人の救い主でもあることを知ったことにより、
私はすぐに洗礼を受けたいと心の底から思いました。そして、翌週の礼拝の時、伝道者に洗礼を受けたいと伝え、すぐに了解されて、洗礼を受けさせていただきました。