主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。 イザヤ書40章1節

あらすじ 主に選ばれ愛されているにも関わらず、主の目の前に悪を行い続け、悔い改めることのなかったユダの王と民は、ゼデキヤ王の時代についにエルサレム神殿まで完全に略奪され、ユダ王国は完全に滅びた。ゼデキヤより以前に剣をのがれて残った民は、バビロンの地でバビロン王に仕えることで、繁栄を取り戻し、平安を得ることがエレミヤにより約束された。主は、彼らの罪ゆえに懲らしめたが、そこで終わりではなく、彼ら自身のいやしがたい傷を主自らがいやすことを約束され、さらにのちの日にバビロンの捕囚からの解放さえも保証して下さった。

1;慰めよ、慰めよ、わたしの民を
、私はどのようなメッセージを伝えることができるのかと主に尋ねる。主は私にに語り掛ける。主の民を慰めよ、と。慰めをもたらすメッセンジャーとなれと主は語られる。

私は、クリスチャンになってから後に、伝道者として燃え尽き、家族を失う悲しみと挫折、立ち上がれなくなり、起き上がれなくなり、心も深く傷つき、大きな嵐の中で疲れ果て、いやされがたい傷を負った伝書鳩のようになった自分。自分自身にはいやす力もなく、気力もなく、主の前に倒れ伏すしかなくなってしまった自分、いやされてもいやしがたく、ただ臥すしかなかった自分はどのようにして回復していくことができたのか。主の慈愛と慰めにみちたご配慮により、荒野中に主の道を設けて下さり、一歩一歩立ち直るきっかけを用意して下さっていた主。主の恵みと慈しみははかりがたい。
2;エルサレムに優しく語りかけよ。
どのような状況の中にいる民に語りかけるのか。神に愛されているにもかかわらず、神に聞き従わず、主の目の前に悪を行い、己のとがのゆえに、神に見捨てられてしまった民、今まで拠り所にしていた神殿も壊され、子供たちも殺され、他国へ連れ去られてしまい、土地も財産も食もすべてを失ってしまった民に。
彼らの一番の苦しみは、己のとがのゆえに、神は私たちを見捨ててしまわれたのではないかという恐れと後悔にさいなまれている民に、神の怒りをかってしまったのではないかという恐れと後悔の中で打ちひしがれ、自ら神に呼び求めていく気力されも残されていないような神の民に再び呼びかけよと主は語られる。
しかし、神は、イスラエルへの愛を捨てたことはなく、罪による労苦のあとに、神の恵みを用意されていた。罪が増し加わるところには恵みもさらに増し加わる。
主は、イスラエルに優しく呼びかけるようにと語られる。やさしさとは傷ついた葦を枝を折らず、消えかかる燈心の炎を消さないいたわりの心をもって関わる心である。

3;荒野で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
 しかし、周囲はまだ荒地のままであり、決して都のように整えられた暮らしやすい環境ではない。自らの働きは整えられず、生きていく厳しさだけが残る。しかし、荒地にみえるその場所も不毛なのではなく、このような環境の中でこそ、主のために道を設けるようにと私たちは召されている。

4;このようにして主の栄光が現されるのだ。
イスラエル神殿の徹底的な破壊。神による再建は、まず古い建物をすべて破壊し、平らにすることから始まる。
私たちは、自らの手の働きで建て挙げてきた数々の神殿、また過去から残されてきた業績、大切にしてきた伝統、これらの拠り所がある。これらが壊されていくことを見るのは大変つらく、人は皆、失われていくことを嘆き悲しむ。しかし、主の栄光が現されるためには、人による栄光の産物は必要とされない。決して、主の栄光と人の栄光がまじりあって一緒に誉を受けるということはない。だから、神は人の作り上げた栄光は徹底的に破壊される。

5;なんと呼ばわりましょう。
神は、イザヤに対して民に呼びかけるようにと促される。イザヤは何と民に向かって呼びかけたらよいでしょうかと応答する。主の答えは、人はいかにはかなく、空しいものであるかを徹底的に悟らせよと語る。人を野の花にたとえ、その果敢なさを悟らせよと語られる。
人は財産を失っても、それでもさらに自分自身にしがみついて生きていこうとする。自分の自身のプライドが自分を守る最後の砦となる。しかし、神は、人のプライドさえもはかなく空しいものであることを語れとイザヤに語りかける。
6;だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
人は、自分のことだけは信じていたい。自己愛だけは守っていたいと思う、大切な自分の自我さえも砕かれてしまったら、人はどのようにして自分自身を保っていけるのであろうか。
神は、イザヤに次の言葉を与えた。『だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。』
人の力に頼るな、人の業績、人のすべての栄光は、草のように一瞬栄えたとしてもまた一瞬に枯れてしまうはかないもの、このようなものに頼るな、期待をかけるな、それらはあなたの慰めとはならない。
神の慰めとは、人が大切にしていたすべてものを失わせた後に、なお残るものを与えようとされるところにある。
神の与える慰めとは、永遠に変わることのない神の言葉である。
この世のいかなる被造物にも慰めを得ることのできなくなった人に対しても、なおその人を魂の根底から支えることのできるものは、『神の言葉』である。

神の言葉だけは、人がすべてのものを失ったとしても、どんな暗闇に閉じ込められていたとしても、どんな深い罪の泥沼に足を捕られていたとしても、愛することにも愛されることにも自信を失っていたとしても、神の言葉だけは、人を再び立たせることができる。

暗黒と死の影にすわる者たちを照らし、われらの道を平和の道に導く。ルカ1:79
人にとって、自分はまだ生きていてよい、存在していてもよいと魂の根底が支えられていることが慰めである。人が再び未来に向かって目を向けることができ、私にもまだ未来が残されていると、闇の中の先にかすかにでも光が見えることが慰めである。
神の言葉は、人に生きる力、すなわち明日への希望を、未来を与えることができる。

主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建てなおされる。エレミヤ31;3,4