『それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。』マタイ21章4節
イエス様は十字架につけられる1週間前にろばの子に乗ってエルサレムに入城されました(注;エルサレムの城壁に囲まれた町であった)それは、旧約聖書に預言されていたユダヤ人の真の王であることを実現するためでした。イエス様は旧約聖書の預言の通りに行動されましたが、
イエス様の弟子であったマタイもヨハネもイエス様がユダヤ人の真の王であることを伝えたいがために福音書を書きました。ろばの子に乗ってエルサレムに入城されるという行為は、イエス様が旧約に預言されていたメシアであることの証の一つでした。ヨハネは分かりやすくなぜイエス様がろばの子に乗ってこられたのかを福音書に書き残しました。
2:ユダヤ人の真の王の姿とは、柔和で謙り、平和の王としての姿である。
ろばは荷物を運ぶための家畜として中近東では重宝されてきました。水や薪や農具や畑の収穫物を運びました。岩山の多い、イスラエルの地方でも貴重な存在でした。人々がこのように収穫物を運ぶことができるのは、戦いの無い平和な時に限ります。戦いが起これば、人々は安心して農産物や生活に必須の水を安心して運ぶことはできません。
イエス様がろばの子に乗ってきたことは、平和であることの象徴でもありました。
一方、戦争の時に必要とされる家畜は馬です。当時、馬は戦いの象徴でした。そして、勝利を収めた王は、
軍馬に乗って凱旋し、人々の称賛を受けたのです。
イエス様が来られたのは戦いを止めさせ、真の平和をもたらすためでした。このことが、ゼカリヤ書9章9.10節に預言されています。
『見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ』ゼカリヤ書9章9.10節
3:イエス様を平和の王として私たちの心の中に迎えましょう。
人々は、熱狂的にイエス様を歓迎しました。しかし、その同じ週の末には、イエス様を十字架につけることに同意しました。人々はただ宗教的な情熱に浮かれていただけだったのです。彼らの心の中は、自己中心、自分の利益でいっぱいで真の平和、真の救い主を求めていたわけではなかったのです。
宗教的熱心が人を殺すということをよく現していると思います。
今、私たちの心の中はどうでしょうか。
争いに満ちていないでしょうか、憎しみやさばきの心で満ちていないでしょうか?親子の間で、夫婦の間にあるのは、平和でしょうか、戦いでしょうか?
私たちの心の神殿には何があるのでしょうか。繰り返しますが、争いに満ちていないでしょうか、憎しみやさばきの心で満ちていないでしょうか?親子の間で、夫婦の間にあるのは、平和でしょうか、戦いでしょうか?
イエス様を心の神殿にお迎えするとき、はじめて真の平和が与えられることを教えています。
戦いのための軍馬ではなく、平和のためのろばの子に乗って来られたイエス様を心の中に迎え入れましょう。
2016.9.24 片瀬山集会