主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼らはひれ伏して幼子を拝み、  マタイ福音書2章11節

クリスマスは、イエス様に礼拝が捧げられた記念日。

教会がクリスマスを祝うのは、大きく二つの意味があると思います。
一つは、イエス様が救い主とお生まれになったこと。
一つは、イエス様はユダヤ人の王として礼拝を受けるにふさわしい方であること。です。
二つ目のユダヤ人の王として礼拝を受けるにふさわしい方であることは、ただユダヤ民族の王としてだけでなく、
すべての民族の王として、礼拝を受けるにふさわしいということを含めています。

東方の博士たちは、救い主を拝みに来たのではなく、王を拝みに来ました。
出会ったその王はまだ幼子でした。王であることを証明するしるしは何もありません。ただ、彼らを導いた星が幼子のいる場所にとどまったというしるしだけが彼らの拠り所でした。博士たちが、この幼子を王として見据えて、信じたということは、大変な驚きです。
この博士たちの先見の明?があって、世界で初めて、イエス様に礼拝が捧げられたのです。
それまでは、この幼子を王として認識する人はいませんでした。マリヤもヨセフも、イエス様が王として、他国の博士たちによって礼拝を受けたことに驚いたことでしょう。

エス様が王として礼拝を受けられたと福音書が記し、この出来事を2000年間も語り続けられていることに
教会の民である私たちは、心を低くして受け留めたいと思います。
救い主として、私たちを罪からお救いになられたのちに、天に昇られ、王としての地位を神より授けられたイエス様に心を向けたいと思います。
教会の民にとって、大切なことは、イエス様をまことの王として礼拝を捧げているのか、また、イエス様を自分の人生の王、主として心の中に迎えているのか、つまりイエス様に自分の人生を支配する権をゆだねているのかを自問するときとして、クリスマスを大切にしなくてはならないのではないかと思います。
2016.12.24,5  片瀬山集会、茅ヶ崎集会