ヨハネ15章1節から8節
信仰者の成長、実を結ぶクリスチャンへ。
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。エペソ書4章16節
騒がしい世の中です。このような時、私たちの心も揺さぶられ、右に左にそれてしまいやすいですが、このような時だからこそ、イエス様にしっかりととどまっていく、つながっているということが大切であることを教えられ、御言葉を分かち合いたいと思います。
概要
イエス様は信じるだけでなく、信じた者たちが豊かな実を結ぶ者へと成長していくことを願っている。そのための警告と励ましとその方法について語って下さっている。これは、すでに弟子とされている者へ積極的にキリストにとどまり、実を結ぶ者になりなさいという勧めです。
序論
この話でイエス様が伝えたかったことは、8節『多くの実を結ぶ』ということです。
そのために大切なことは4節『わたしにとどまりなさい』という勧めです。
私にとどまっていることの理由は4節『わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません』からです。
4節の御言葉は裏を返せば、5節『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』から、ということです。
主を離れては何もすることができないという、神の国の働き、そしてまた、主の言われる実は、人に力によって結んでいくことは決してなく、そのすべてはイエス様から頂くものであるという自覚を痛切に感じてこそ、イエス様にとどまっていなければならないというイエス様の命令に心が開かれていくものであります。
本論
1節から2節
イエス様はクリスチャンをブドウ畑に例えています。
イエス様がぶどうの木であり、父なる神様は、ブドウを育てる農夫です。
イスラエルは、ブドウの生産地として有名で、イエス様が活動されていたガリラヤ湖の北部一帯はブドウ畑が平野、山全体に広大に広がるところだそうです。
2節には二つのことが書いてあります。
- 実を結ばないものは取り除かれる。イエス様を救い主として信じることにより、私たちは、父なる神につながることができます。永遠の命を得て、枯れない枝となることができます。ですから、まずはイエス様を救い主と信じイエス様を自身の心の中に受け入れることが大切です。イエス様を信じていなければ、やがて、寄せ集められ、火に投げ込まれてしまいます。これは、6節に書いてあります。
- つぎに、実を結ぶ者に対しての助言です。実を結ばない枝は、焼き捨てられますが、実を結ぶ枝に対しては刈込をなさいます。枝を切り捨ててしまうのではなく、もっと豊かに実を結ぶように、整えて下さるのです。刈り込まれることにより、不要な部分は切り取られ、痛みを伴うかもしれませんが、不要な部分が取り除かれることで、よりいっそう実を豊かな養分が送られて、実を実らせていくことができるように父なる神は私たちを整えられるということです。
もうきよい。
3節 1,2節を読み、自分は投げ捨てられてしまうのではないかと不安に思う弟子もいるかもしれません。イエス様は、この3節で、そのような不安に陥る弟子に対して、『あなたがたは、~もうきよい』と言われました。このきよいという意味は、綺麗なという意味ではなく、聖い、というすでに神の所有として区別されているという意味です。
ヨハネ13章10節。イエス様は弟子たちを自分の所有、羊として受け入れており、不要な枝として投げ捨てられることはないと改めて教え諭してくださっています。安心です。私につながっている枝であるからこそ、豊かに実を結んでいくことに心を向けるように弟子たちに促していると言ってよいと思われます。
とどまる
4節 とどまるという言葉には、関係を結ぶ、受精する、妊娠するという意味があるそうです。つまり、とどまるということはイエス様から流れ出る命と、しっかりと結び、つながり、命の受け渡しが行われているということだと言えます。イエス様から流れ溢れる命がわたしという器の中に結びあわされていくことがとどまるということではないかと思います。
枝は幹につながっていて当然であると考えますが、あえて枝が幹につながって離れないでいることをイエス様は語られている。これはどういうことでしょうか。
接ぎ木という栽培方法があります。実をよく結ばせるために、元の台木に挿し木をして増やしていく実を実らせていく栽培技術です。
ブドウもよく挿し木をして栽培される果物の一つです。
台木に挿し木がつながるためには、しばらくの間しっかりと結び合わせたところが動かないように固定しておく必要があります。静かに固定して待っていれば、自然に台木と挿し木は結び合わされ、台木からの栄養が挿し木した枝に流れ込むようになります。
つながる前に動かしたり、抜いてしまっては台無しになってしまいます。
聖書にこう書いてあります。
『もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につながれたのであれば、』ローマ11章24節
『そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないでかえって恐れなさい。』ローマ11章20節
私たちは神の憐れみによって、信仰によって救いに与らせていただいている異邦人に過ぎないのです。それゆえ、高ぶらず、神につなげていただいているという感謝の心を絶えず持ちながらイエス様にとどまろうとする信仰を求められているといえます。
5節『わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ない』という自覚
4節にも言われていますが、イエス様は、私たちのほうから『とどまる』という意志を持つことが大切であること、またそのようにイエス様と関わることを命じています。
枝は、幹につながっていて当たり前のように思われますが、あえて枝が幹につながっていて離れないようにする。私たちのほうからイエス様にとどまり続けるならイエス様もあなたがたの中にとどまっていて下さる。これは、イエス様が信じる者に無条件で与えられる永遠の命の実以上の実について語っていることに気がつかなければなりません。
永遠の命をいただいた者が、もう永遠の命をいただいているのだから、この世においては、自由に過ごしていてもいいのだと、日々の主ご自身のとの交わりの時を持たず、また礼拝にも出席せず、聖徒たちとの交わりにも参加せずにいて良いのではありません。
私たちに永遠の命が与えられたということは、神の子どもとしてよりいっそうイエス様と親しく交わることの特権が与えられたといってもいいと思います。イエス様との関係が与えられているからこそ、さらにイエス様に親しくとどまることを通して、豊かな実を結ぶように召されているのです。
『わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ない』という自覚が必要です。
実とは何でしょうか。
実は食されるために結ばれます。良い栄養が供給された実は、味わい豊かな人々を喜ばせる実を結ばせます。
また、実は食されてこそ、鳥や獣やまた人の栄養となり、また実に含まれる種を周囲に蒔くことができます。実を通して種が蒔かれていく。
多くの実を結ぶことができれば、また多くの種が蒔かれていきます。
キリストに固く結びつき、キリストの内にとどまり続ける人々を通して、
周囲の者たちは、キリストを様々な形で食していくことになるでしょう。
実を食する。
実を食することについて、もう一つ最近、気が付かされたことは、
実がなることをいつかいつかと待ち続けることがすべてではなく、
実を私たちもまた食することができるということです。
『自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになるものは幸いである。』黙示録22章14節
私たちは、天にすでに実っているいのちの木の実を食する権利が与えられてます。
イエス様が昇天されたときに、私たちもイエス様と共に天に座を設けて下さっています。
エペソ1章3節に『神は、キリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』とあります。私たちは、すでに霊の祝福をいただく特権を得ているのです。
本来、人は、『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い』創世記2章16節
と神様と言われていました。
園にある木はそれぞれ豊かな実を結んでいたことでしょう。アダムとエバはそれらの実を自由に食することがゆるされていたのです。
私たちクリスチャンは、イエス様の十字架による罪の贖いを通して、再び神と交わることのできる存在として再創造されました。これは言い換えれば、再びエデンの園に入ることが許されたことを意味し、また同時に、神の都にはいれる特権を与えられたことを意味しています。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。ガラテヤ書5章22,23節
私たちは、天の御座において、都の大通りにおいて、エデンの園において、
神ご自身によって供給されている豊かな果実を自由に食することが許されていると言えます。
御霊の喜びの実が欲しいのであれば、信仰によって、天の御座に近づき、そこで遠慮なく、喜びの実を食し、その喜びを自分の内に満たすことが許されている。
御霊の柔和の実が欲しいのであれば、柔和の実を食する。そうすれば柔和が私たちの魂の内に満たされていく。
結論
すでに実はキリストの内に豊かに実っているのです。
2020.3.8 茅ヶ崎集会 建徳要旨